SNSを開けば、誰かの目も眩むような成功や、 きらきらと輝く日常が、容赦なく目に飛び込んできます。
「あの人はあんなに満たされているのに、どうして私は……」
ふとした瞬間に、自分と誰かを天秤にかけては、 心がじりじりと削られていくような感覚。
今の時代、そんな比較のループに迷い込んでいない人の方が、 きっと珍しいのかもしれません。
実は、私自身もそうでした。
900年続く神社の家系に生まれ、 何か窮屈で不自由な感覚に襲われていたとき、 自由に遊び、青春を楽しんでいる同級生を羨んでは、 自分の人生がつまらないものと感じていた時期がありました。
そんな時、私の曇った心を一瞬で晴らしてくれたのは、 幼い頃、庭先でおばあちゃんが遺してくれた「ある言葉」でした。
それはとてもシンプルで、けれど抗いようのない真理。
「他人を羨むのはね、ひまわりが『桜になりたい』と嘆くようなものなんだよ」
今日は、自戒も込めて。 おばあちゃんから教わった「分(ぶ)」という智慧と、 あなたがあなたとして、凛として生きるための作法について、 少し深くお話しさせてください。
ひまわりは、決して桜になろうとしない
庭先に咲く花を眺めながら、おばあちゃんはよくこんな話をしてくれました。
「いいかい、ひまわりが『桜になりたい』と嘆いて、春に無理やり咲こうとしたらどうなると思う? きっと、冷たい風に打たれて、種を繋ぐことすらできんようになる。 逆に、桜が『もっと目立ちたい』と夏まで粘っても、その枝は暑さに耐えられないでしょ」
おばあちゃんの言葉は、いつも自然の理(ことわり)と繋がっていました。
神道には、山にも、川にも、道端に咲く名もなき草花の一つひとつにまで、固有の神性(役割)が宿っているという考え方があります。
この世界に無駄な存在など一つもありません。
同時に「代わりになれる存在」もまた、一つとして存在しないのです。
ひまわりには、真夏の太陽を全身で受け止め、誰よりも高く空を仰ぐという「分(ぶ)」がある。
桜には、厳しい冬を耐え抜き、一瞬の春を淡く彩るという「分」がある。
そして、それらに踏まれても決して枯れず、土をしっかりと支える雑草にも、彼らにしか果たせない尊い「分」がある。
「分(ぶ)」とは、神様から預かった「命の設計図」
誰かを羨んで自分を蔑むということは、その設計図を自ら破り捨て、自分の中に宿る神性を否定することと同じです。
「ひまわりが桜を羨んでも、ひまわりの良さは一ミリも増えないでしょ。 それどころか、足元の土に水をやるのを忘れて、自分の花まで枯らしてしまう」
おばあちゃんのその言葉に、私はハッとしました。
他人の花園を見上げている間、私は自分というお社の庭を、荒れ果てたまま放置していたことに気づいたんです。
「分」を知ることは、諦めではなく「解放」
「自分の分(ぶ)をわきまえなさい」
現代の私たちは、この言葉を「自分はこの程度なんだ」とどこかネガティブな、可能性を制限する言葉として受け取ってしまいがちです。
けれど、私がおばあちゃんから学んだ「分」の真意は、全く逆でした。
それは諦めではなく、他人という呪縛から自分を解き放つための「自由の合言葉」なんです。
「分」という字は、八(わける)と刀から成り立っています。
それは、自分と他人の間に、清らかな「境界線」を引くということ。
誰かを羨んでいるとき、私たちの意識はその境界線を越えて、他人の庭に侵入してしまっています。
他人の庭をいくら耕しても、自分の人生に花は一輪も咲きません。
それどころか、境界線が曖昧なままだと、他人の期待や世間の評価という「外圧」に押しつぶされ、自分本来の形を失ってしまうのです。
私は、あの人のような華やかさはないかもしれない。
けれど、この家系に生まれ、言葉の重みを知り、一人ひとりの人生に深く寄り添うことができる。
それが私の「分」であり、私という種にしか咲かせられない花の形なのだと。今では自分の輪郭がはっきりと見えています。
自分の境界線をはっきりと自覚した瞬間、不思議なことに、他人への嫉妬はすうっと消えていきました。
「あの人はあの人の分を全うしている。なら、私は私の分を、誰よりも美しく全うしよう」
「分」を知るとは、自分の持ち場を愛し抜く決意をすること。
それは、他人との比較という終わりのない競争から降りて、自分という人生の「主(あるじ)」として生き始める、本当の意味での解放です。
視点を「外」から「足元」へ戻す作法
「分(ぶ)」を生きるということは、何もしないことではありません。
むしろ、他人を眺めていたエネルギーのすべてを、自分の人生という持ち場に注ぎ込む、非常に密度の高い生き方です。
もし、あなたが誰かを羨んで苦しくなったときは「私は自分の人生の舵を、他人に明け渡してしまっていないか?」と自分に問うてください。
羨ましさが湧く瞬間、私たちの意識は自分の体(社)を離れ、他人の人生を「観客」として眺めてしまっています。
けれど、あなたの人生という舞台を動かせる主役は、あなたしかいません。
おばあちゃんは私に、こうも言いました。
「他人の庭に咲く花を眺める暇があるなら、自分の土の下で、次の春を待ってる根っこの声を聴いてやりなさい。その子を信じてやれるのは、世界中であなただけなんだよ」
視点を「外」から、自分の「足元」へ。
他人の成功を「点」で見るのではなく、自分が今、この瞬間という「線」の上に立ち、自分の種を育んでいるという事実に誇りを持つこと。
それが、私がおばあちゃんから学んだ本質的な自分への向き合い方です。
自分にしか咲かせられない花を、凛として
ひまわりが桜になれないのは、不幸なことではありませんよね。
ひまわりがひまわりとして、太陽に向かって堂々と咲き誇る。
その姿こそが、この宇宙における正解であり、美しさの極致です。
あなたがあなたであることを、他の誰かに譲る必要はありません。
あなたが抱えているその葛藤も、不器用さも、すべてはあなたという種にしか咲かせられない「唯一無二の花」を彩るための、大切な栄養です。
誰かと比べて足が止まりそうになったら、思い出してください。
あなたの足元には、あなたにしか芽吹かせることができない「分(ぶ)」という名の種が、今もあなたの水を待っています。
他人の影を追うのは、もうおしまい。
今日からは自分の持ち場を愛し、慈しみ、 あなたにしか咲かせられない花を、どうか凛として咲かせてください。
その歩みの先にこそ、あなたという社(やしろ)を照らす、 本当の光が待っているのですから