命は簡単にはなくならない
自分がどのように生き、どのように死ぬのかを考える
私は以前、屠殺業に携わっていました。
そこで最も衝撃を受けたことは、
「命は、私たちが思っているほど簡単にはなくならない」
という事実でした。
それまでの私は、病気になると人はあっさり亡くなってしまうものだと思っていました。
テレビや新聞では、病気によって突然亡くなった人の話が繰り返し報道されます。
そのような情報に触れていると、命はとても弱く、簡単に消えてしまうもののように感じます。
しかし、屠殺の現場で私が見た命は、まったく違いました。
命は最後の最後まで生きようとします。
身体は動ける限り動き、息が続く限り息をし、生きることを簡単には諦めません。
私はその姿を見て、命には、私たちが想像している以上の強さがあることを知りました。
■簡単に亡くなったように見えても、そこに至るまでの経過がある
人が亡くなったとき、周囲からは「突然だった」「あっという間だった」と見えることがあります。
しかし、その最期だけを切り取って、命は簡単になくなるものだと考えてよいのでしょうか。
その人がそれまで何を食べ、どのように身体を使い、どのような感情を抱え、何を我慢し、どのような治療や薬を選んできたのか。
身体の中では、長い時間をかけて変化が積み重なっていた可能性があります。
もちろん、事故や災害など、自分では避けられない出来事もあります。また、亡くなった方やご家族を責めたいわけでもありません。
私が考えたいのは、死には必ずしも目に見える直前の出来事だけではなく、
そこに至るまでの生き方、食べ方、考え方、生活環境、治療の選択など、さまざまな背景があるということです。
■文明化した生活と身体の変化
人は文明化によって便利な生活を手に入れました。
一方で、精製された食品、砂糖、加工食品、植物油などを日常的に食べるようになり、身体を動かす機会も減りました。
便利になったはずなのに、慢性的な不調を抱える人は少なくありません。
口の中の問題、胃腸の不調、肌荒れ、慢性的な疲労、痛み、眠れない、気分が安定しない。
それぞれは別々の問題に見えますが、私は日々の食べ方や生き方、感情の積み重ねが、
身体のさまざまな場所に表れていると考えています。
そこに薬の副作用や治療による負担が重なれば、身体が本来持っている力を十分に発揮できなくなる場合もあります。
病気になったから、すぐに死ぬのではありません。
病気になったときに、自分の身体で何が起きているのかを知ろうとすること。
これまでの食べ方や生活を振り返ること。
治療や薬にすべてを任せるのではなく、自分が何を選ぶのかを考えること。
その姿勢が大切なのではないでしょうか。
■自分がどのように死ぬのかを考えて、今を生きる
死について考えることは、暗いことでも縁起の悪いことでもありません。
「自分はどのように死にたいのか」
「最期まで何を大切にしたいのか」
「誰と、どのように過ごしたいのか」
「そのために、今の食べ方や生き方をどうするのか」
自分の死に方を考えることは、今の生き方を考えることでもあります。
死をただ怖がり、考えることを避けていても、自分の望む最期に近づくことはできません。
医療にどこまで頼るのか。
延命治療をどう考えるのか。
食べられなくなったときにどうするのか。
自宅と病院のどちらで最期を迎えたいのか。
本人だけでなく、家族とも話し合っておく必要があります。
大切なのは、誰かから与えられた「正しい死に方」に従うことではありません。
命は簡単にはなくならないという前提に立ち、自分の身体と現実を見ながら、
「では、自分はどう生きるのか」
「どのような最期を選びたいのか」
を考え、議論することです。
■命は、最後の最後まで生きようとしている
命は、私たちが考えているほど簡単にはなくなりません。
身体は不調や症状を通して、何度も自分に問題を知らせています。
症状をただ消すことだけを考えるのではなく、
「なぜ、この症状が起きているのか」
「自分の生き方の何が身体に表れているのか」
を考えてみる。
病気や死への不安があるときこそ、自分の身体と向き合う機会になるのだと思います。
あかつき道整骨院では、症状だけを見るのではなく、食生活、生活習慣、考え方、家庭環境なども含めて、
現在の身体の状態を一緒に整理します。
病院では異常がないと言われたけれど不調が続いている方。
薬や治療を続けることに疑問や不安がある方。
病気や死への恐怖が強く、これからの生き方を考えたい方。
何から見直せばよいのかわからない方。
一人で答えを出そうとせず、一度ご相談ください。
自分がどのように死ぬのかを考えることは、これからをどのように生きるのかを考えることです。
命が最後まで生きようとしているからこそ、私たちは今の生き方を選び直すことができます。