夜、電話が鳴りました。
日勤を終えて、帰宅して、ようやく座ったところでした。画面に出ていたのは、病棟の番号です。
夜勤者からでした。
声が、上ずっていました。話しながら何度も言い直して、順番が前後して、それでも伝えようとしているのがわかりました。
入院されている方の息子さんに、怒鳴られたのだと言います。
「ちゃんと対応しているのか」
「きちんとやれよ」
ナースステーションの外まで響く声だったそうです。
私はそのとき、責任者でした。
かけ直そう、と思いました。思ってから、実際に番号を押すまでに少し時間がかかりました。手が、震えていました。
正直に言えば、かけたくなかったです。
それでも、夜勤はまだ続いているのです。あの子は朝まであそこにいる。
電話では、こう伝えました。
お母さまを心配される気持ちは、当然です。それは本心でした。けれど、特別扱いはできません。
「できることと、できないことがあります」
長くはかかりませんでした。責任者から直接連絡が来た、ということ自体が、たぶん効いていました。最後は静かに終わりました。
その日から、ずっと思っていることがあります。
現場の一人が謝り続けても終わらないものが、上の人間が一本かけると終わる。
理不尽です。でも、そういうものなんです。
つまり、あなたが受け止めきれないのは、あなたの力量の問題ではありません。そもそも一人で受け止める構造になっていないだけです。
「私の対応が悪かったのかな」
そう考えてしまう人を、たくさん見てきました。真面目な人ほどそうなります。でもあの夜、悪かったのは対応ではありませんでした。
この秋、法律が変わります。
十月一日から、カスタマーハラスメントへの対策が、すべての事業主の義務になります。相談窓口を置くこと、事実を確認すること、被害を受けた職員に配慮すること。それが会社の責任として明文化されます。
一人で抱えるものではない、と国が決めたということです。
いいことだと思っています。
ただ、制度ができても、あの夜の震えは消えません。
怒鳴られた瞬間の心臓の音も、帰り道でふいに思い出してしまうことも、窓口があるからといってなくなるわけではないんです。
そこは、誰かに話すしかない部分です。
私はずっと、現場で人の話を聴いてきました。
患者さんの話も、スタッフの話も、辞めていく人の話も聴いてきました。何かを解決したわけではありません。ただ、聴きました。
それでも、話したあとの人の顔が変わることは、何度もありました。
いま職場のことで疲れている方、誰にも言えないまま抱えている方がいたら、話しに来てください。
上司にも同僚にも家族にも言えないことを、そのまま置いていける場所として使ってもらえたらと思っています。