「イベント家族」からの逃走

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コラム
「連休、どこか行きますか?」「休みはどうしますか?」そんな会話がやりとりされる季節となりました。我が家も子どもが小さかった頃は、頑張ってあちこちに遠出していたなあと思います。
でも、今年の気分は、「休みは休もう」と思います。「ただ休むだけ」それが理想の連休の過ごし方です。
私の連休は、朝寝坊をしたあと、おそく起きて、冬物を洗ったりします。そして以前からゆっくり読みたいと思っていた本を、読み返したりしています。

こんな風に「自分のしたいように今日を過ごす」ということができるようになるのにも、私には、ある種の決断が必要でした。
「自分のしたいように過ごす」ためには、「行きたくない場所には誘われても行かない」というひとてまが必要です。

私の場合は「実家からの集合命令」を断る というひとてまでした。
実家は、「ハレの日」が大好きな「イベント家族」でした。
年末年始や盆暮れや、冠婚葬祭などの親戚付き合いに対して「絶対参加」を高く掲げる家族でした。「全員集合する家族」が両親にとって何よりも大切なようでした。
毎回みんなが顔を揃えるたびに、父は人数を数えます。娘の夫、その子、その子の夫、ひ孫と、とにかく多人数が揃ったことを確認し、自分の家の繁栄を誇るのでした。
5月の連休が近づくと、母から「いつ帰るの?」と電話がかかってきたものです。そこに「帰らないかも」という選択肢は、含まれていませんでした。
私はその母からの電話に「圧」を感じ、断る勇気のでないまま、毎年渋滞する道のりを実家へ移動していたものでした。
それでいて両親は「なんでもない日」に ふっと私が実家に帰るのを嫌がりました。ときには実家に帰って、何にもしないで、ただ休みたい、そう思う日もありましたが、そんなことはさせてもらえません。「ひとりで帰ると近所の人に変に思われるでしょ」と母は言いました。「帰ってくるときはちゃんと夫婦そろって仲良く帰りなさい。」母にとって大切なのは、娘の気もちではなく「世間体」でした。だから一人でふらっと帰ってくる娘を母は嫌いました。
母は私が実家に帰ると、必ずみんなを呼び寄せ、大人数で私をむかえるのです。だから私にとって「ただ休むだけの帰省」は一度もなく「帰省というイベント」になってしまうのでした。こうして休日は、私にとって「休む日」ではなく「休めない日」になったものです。
そうするうちに、そもそも私にとって実家とは、どこにも「心の休まる場所」なんてなかったことに、何度も何度も気づかされるのでした。
イベント家族、落ち着かない家・・・いつも大勢(泣)。
実家といえど、心が休まらない、くつろげないという人は、案外多いのではないでしょうか。娘を思い、包み込むような親の愛などというものは、私の場合到底望めませんでした。
母は、もしかしたら、私と一対一で向き合うのが苦手だったのかもしれませんね。(笑)そういう親もいるのです。
「イベント家族」で、困るのは、その「非日常」を大切にするあまり、大切な「日常」が犠牲になることです。
たとえば、かりに子どもの入学試験の直前だとしても、親戚の集まりに顔を出し、受験そのものを酒席の話題として提供すべしという空気が、私の実家にはありました。(受験生には大迷惑!)日ごろの生活の忙しさに疲れ果て「今回は帰省しない」という一言さえ許されない空気もありました。
仕事じゃないのに、仕事よりもプレッシャーがかかる、それが親戚、しかも実家だなんて、息苦しい話です。
「同調圧力」ということばを、家族に対して感じ始めたのは、そのころからです。
いつしか私は 帰省を重く感じるようになりました。

親戚づきあいを深めるのは悪いことではありません。ただ、それが「自己決定」~自分のことを自分で決めること~よりも優先されるべき、というのは、息苦しいものです。
波風がたたぬよう、支配を受け入れ、「自己決定」を放棄することで、失うものが積み重なっていきました。やがて 私の子どもたちが受験生になり、実害を受けそうになったとき、さすがに目がさめました。我が子を犠牲にしても、守りたい親戚づきあいって何?
実家は私にとって、いったいどういう場所なんだろう?
「実家で大切にされる人になりたい」という長年の夢を手放そう。
それはそんなに価値のある夢だったのだろうか?、それはもう捨ててもよい執着だったのではないだろうか?と。
「この実家はもういいな」「私の戻るべき家ではないなぁ」と、しずかに私は諦めはじめました。
そうして 実家に「なにがなんでも帰省させられる」ことを少しずつお断りするようになり、自分の過ごしたいかたちで日々を過ごしはじめたのでした。
当然両親や姉たちからの抵抗はありました。家のルールを、私だけが破ったのですから。
二人の姉は、今も両親の集合命令に従い、かれらの望むイベントをこなし続けているようです。彼ら自身が幸せなら、それもいいと思います。
世界中の誰から悪く言われようとも、したくないつきあいをお断りする、それが普通になってしまえばこっちのものです。いまの私は、なんの言い訳もしないで、自分の過ごしたいように休暇を過ごすことができます。
アドラーの言う「嫌われる勇気」を持つことで、人生は自分のすごしたいように過ごせる日の連続、となりました。それがどんなにしあわせで、ありがたいことかを私は知っています。
今日も良い天気。休んで、休んで、洗濯ものも からっと乾いて、庭もきれいになりました。私は、いま、ここを生きています。

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