【1】
先日、とても悲しく、そして重たく受け止めなければならないニュースが流れました。
「実の母親が、幼い我が子の命を奪ってしまった」
たとえようもなく切ない事件です。
その背景には、おそらく想像を絶するほどの孤立、苦しみ、誰にも届かなかった叫びがあったのだろうと、報道に触れるたびに胸が締めつけられます。
わたしは占い師という立場で、人の心の奥深くを垣間見る機会をいただいています。
でも、だからこそ、こうした事件に関して“何かを語る”ということの難しさと、語るべきでないことの境界を強く意識します。
なぜなら、この出来事について語る資格を、本当の意味で持つのは“当事者”だけだからです。
「もしこうしていたら…」
「母親なのに信じられない」
「子どもが可哀想」
SNSには、まるで答え合わせのように言葉が並んでいます。
けれどその多くは、決してあの場所に立っていたわけではない第三者の“想像”にすぎません。
わたしは思います。
想像は、時に人を助け、時に人を傷つけます。
もし本当にこの事件から何かを受け取りたいのなら、
「語る」のではなく、
まずは「黙って、寄り添うこと」から始めるべきなのではないでしょうか。
母であるということ。
育てるということ。
命を守るということ。
それがどれほど孤独な闘いになりうるのか。
わたしたちにできることは、「分かっているつもり」で何かを言うことではなく、
「分からないという事実」にも正直でありながら、
それでも手を差し出せるような社会であることではないかと、私は思うのです。
【2】
そしてもうひとつ、
このような事件が起きたときに向けられる「父親への視線」にも、わたしは強い違和感を覚えます。
「なぜ助けなかったのか」
「家庭を顧みなかったのか」
「妻の異変に気づけなかったのか」
そうした批判の言葉が、まるで当然のように飛び交う空気の中で、
その父親がどれほどの絶望と自責の中にいるかを想像する人は、どれだけいるのでしょうか。
仕事をして、家族を支えるという役割。
それは誰かに言われるまでもなく、父親自身が最も強く背負っているものです。
けれど、目の前の仕事と家庭の現実の間で、
何かを守ろうとすれば、何かが置き去りになる。
誰よりもそれに気づいていたのは、きっと彼自身だったはずです。
「もっと会話をすればよかった」
「もっと抱きしめればよかった」
「もっと早く気づけていれば」
そんな後悔と、喪失と、罪悪感。
愛するわが子を失い、大切な妻にそんな選択をさせてしまったという現実。
他の誰でもない“自分”を責め続けているかもしれない人に、
「あなたも悪い」と指を差すことが、どれほど残酷なことか。
わたしたちは、そのことにもっと敏感であるべきです。
人は簡単に「加害」と「被害」に分けられる存在ではありません。
家族の崩壊とは、ひとりの誰かの責任で起きるものではなく、
“誰にも届かなかった声”が重なり合って、壊れていくものだから。
もし、父親の背中にも寄り添う視点を持てたなら。
そこにこそ、再び家族を支える可能性や、社会が手を差し伸べる余地が生まれるのではないでしょうか。
【3】
そして今、わたしたちが本当に向き合わなければならないのは、
この事件を遠くから見ているわたしたち自身の“ふるまい”なのかもしれません。
SNSで拡散される言葉の多くは、誰かを断罪し、誰かの正しさを証明しようとします。
けれどそれが、どれほど無力で、時に残酷な行為であるかを、わたしたちはもっと深く考えるべきではないでしょうか。
子どもを育てたことのない人が、「育て方が悪い」と口にする。
当事者でない人が、「なぜ逃げなかったのか」と問う。
それらはすべて、“知らないから言える”言葉たちです。
知らないことは罪ではありません。
けれど、知らないまま語ることには、責任が伴います。
わたしたちは、自分が発するひと言が、
誰かの世界をどれだけ揺るがせるか、
どれほど痛みに塩を塗るか、
それを、知らないままでいてはいけないと思うのです。
だからといって、「黙れ」とは言いません。
何かを感じてしまった人が、それを言葉にしたくなる気持ちも、わたしにはわかるのです。
この事件を知ったとき、心がざわついた。
言いようのない不安や怒りが湧いた。
それをどこかに吐き出したい、整理したい、
そんな気持ちもまた、「人間の正直な反応」だと思います。
だからこそ大切なのは、“どこに、どう置くか”なのです。
それを「自分のための感情」として抱えられるか。
あるいは「世界の誰かに向けた言葉」としてぶつけてしまうか。
わたしたちが手にしているその言葉は、
誰かを支えることも、誰かを壊すことも、できてしまうのです。
だからほんの一呼吸。
「この言葉を、わたしは誰のために書こうとしているのか」
そう問いかけてから、発信する。
それは難しいことかもしれません。
でも、それができる人が増えたとき、
世界は少しだけ、やさしくなる気がするのです。
【4】
なぜ、人はそのような行動──つまり、知らないことを断定的に語り、正義を振りかざすような発言をしてしまうのでしょうか。
それは、「無力であること」が怖いからです。
自分にはどうすることもできなかった。
あの子を助ける術もなかった。
母親を救う言葉も持ち得なかった。
そんな無力感に直面するよりも、
「こうすればよかったのに」と語ることで、自分の中に小さな“正しさ”をつくり出す方がずっと楽なのです。
これは、人間の防衛反応でもあります。
心理学では、これを“投影”と呼ぶことがあります。
自分の中にある不安や無力感を他者に向けて表出することで、
自分を守る。
正義の言葉で武装することで、自分の弱さを直視しなくて済む。
だからこそ、わたしたちは、誰かを責めたくなったときほど、
「自分の内側で何が起きているのか」にも目を向ける必要があるのです。
一方で、そうした行動をとらずに感情を抱え込むと、
今度は“沈黙の苦しみ”が生まれます。
言葉にしない分、誰にも理解されない。
誰にも届かないまま、ひとりで心をすり減らしていく。
その苦しみもまた、本物です。
では、どうすればいいのか。
正解はひとつではありません。
でも、もしあなたの中に「言葉にせずにはいられない想い」があるのなら、
それをどこか、安全な場所で、誰かに聴いてもらう。
あるいは、書くことで整理する。
「伝える」と「叩く」は、似ているようでまったく違う行為です。
あなたの言葉が、誰かを裁くための刃ではなく、
誰かの心に寄り添う“対話”になるように。
そのためにはまず、自分の心と向き合うことから。
わたしたちが今できるのは、
こうした事件を「他人事」にしないこと。
そして、「何も知らない自分」から、
「知ろうとする自分」へと一歩踏み出すことではないでしょうか。
【5】
ここまで読んでくださったあなたへ、心からお伝えしたいことがあります。
もし、これまでの自分の言葉やふるまいを振り返って、
「自分もまた、軽率だったかもしれない」と思えたなら。
それは、とても尊いことです。
後悔や反省は、痛みを伴います。
でも、その痛みこそが、あなたの心が他人の苦しみに触れたという証です。
誰かの苦しみに無関心でいられる方が、よほど恐ろしいこと。
ほんのひとことが誰かを傷つけたとしても、
その後に自分を振り返り、「これから何ができるか」を考えられるなら、
その行為は、確かに“救い”へと変わっていくはずです。
誰もが完璧ではありません。
わたし自身もまた、何度も言葉の選び方を間違え、
誰かを知らずに傷つけてしまったことがあります。
でも、それでも学び直し、考え直し、
「誰かの痛みにもう少しだけ近づける自分でありたい」と、
願いながら今日も文章を書いています。
この事件をきっかけに、
世界が少しでも、痛みにやさしくなれたら。
それができるのは、
“どこかの誰か”ではなく、
いま、あなた自身かもしれないのです。
どうか、どうか、あなたの言葉が、
誰かの心に灯る小さな光となりますように。