放課後の昇降口。靴を履き替える手が止まる。
誰かがこちらを見ている気配がした。
白石春《しらいしはる》は鋭い眼差しを上げる。
──視線の正体は、星野灯《ほしのともり》だった。
柱の陰から、あの夜の星のような瞳が、じっとこちらを覗いている。
「……灯?」
呼びかけると、彼女は微かに首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「ううん、別に。ただ、見ていただけだよ」
微笑みすら浮かべずに、さらりとした声でそう言う。
彼女のこういうところが、春にはわからない。
そして、たまらなく愛しいと思う。
──彼女を思うと、また、思春期特有の現象が起こる。
春はぎこちなく鞄を持ち直し、彼女に近づいた。
「本当に、それだけ?」
「それだけだよ。でも、もし春が『尾行されているかもしれない』と気づいたら、どうするのかなって考えていた」
「……お前、まさか」
「うん。つけていたよ」
あっさりとした口調だった。
春は息を詰まらせる。
「それって……普通はしないことだぞ?」
「うん、そうかもしれないね。でも、してみたかったんだ」
「なんでそんなこと……」
「春を、もっと知りたいから」
灯の声は、いつものように穏やかだった。でも、その瞳の奥に揺れるものは、確かに熱を孕んでいた。
春は喉を鳴らす。
自分の胸の鼓動がうるさい。
こんなにも好かれているという事実が、彼の中に甘い痺れを広げる。
彼女は儚げで、ミステリアスで、それなのに時折、こうして一直線に彼だけを見つめてくる。
──耐えられるわけがなかった。
「……灯」
ぐっと手を伸ばし、彼女の腕を引いた。
「……っ」
驚いたように目を見開く灯を、そのまま校舎の影に引き込む。
冷たい壁に彼女の背を預ける形になった。
「お前、俺のこと好きすぎるだろ」
「うん、そうだね」
迷いなく灯は頷いた。
それがあまりにも可愛くて、春は思わず彼女の頬に手を添えた。
「こんなことされたら、俺、我慢できなくなる」
「……そうなの?」
「……わかってて言ってるだろ」
彼女の頬に触れる指先が震えた。
触れるだけじゃ足りない。
もっと。もっと、彼女を感じたい。
──初めて触れた夜を思い出す。
細い指が自分の髪に絡まり、静かに求められたあの夜。
その記憶が春の理性を溶かしそうになる。
「……ねえ、春」
「……なんだ」
「キス、してもいいよ」
その言葉に、彼は息を呑んだ。
灯の瞳が、夜の海のように深く誘っていた。
「……バカ」
囁くように言いながら、春は彼女の唇に触れた。
ほんのりと薄桃色の唇は、彼の熱を吸い込むように柔らかかった。
灯が、そっと目を閉じる。
細く長い指が、春の首元に添えられた。
もっと触れたい。もっと知りたい。
──初恋は、まだ終わらない。
終わるはずがなかった。