人が亡くなったらどこへいくのでしょうか。
死んだことがないので、はっきりしたことはわかりません。どこかで読んだり、聞いたり、映像などで見たような死後の世界が本当にあるのでしょうか。
はじめに私の祖母が亡くなった数日後、お別れをしに来てくれた時のことを書こうと思います。
私は祖母が51歳の時に生まれた孫でした。田舎の大きな家で3世代が一緒に暮らしていました。縄跳びを一緒に飛んで教えてくれました。トランプは「7ならべ」が得意で、いつもコテンパンに負かされました。祖母は自営業をしていて小金を持っていたので、私は何かとおねだりをしていました。
若くてきれいで負けず嫌いで気前のいい祖母でした。気取ったところのある人で「ざます」言葉を電話口では使っていました。ちなみにスネ夫のママの「スネちゃまは留守ザマス」という使い方は正しい「ざます」の使い方ではありません。「スネ夫は留守でござーます」が正しいです。素で「さようでござーます」と言っているので、何とも思っていませんでしたが、先日、母に確認すると、やはり相当上品ぶっていたようです。
話しが逸れました。私が生まれてから実家を出るまでの18年間は祖母にとって最も良いころだったのではないでしょうか。
祖母は大正9年、ねえや、じいやのいる豊かな家に生まれました。ところが12歳の時に母親が亡くなり、17歳で弟が自死して18歳の時、10歳年上の私の祖父と結婚しました。祖父は再婚、しかも取子取嫁でした。つまり子供のいない家に祖父が養子で入って、お嫁さんをもらうのが取子取嫁です。それなのに養母が(祖母の前にいた)嫁を気に入らないからと追い出してしまった。そこに若い祖母が後入りで入ったのです。
父が生まれたのは昭和15年です。祖母はきつい姑につかえ、出征した祖父の代わりに田畑を守り、子供を育てました。戦争が終わって祖父は帰ってきましたが、祖父は被爆し、祖母は結核も患いました。
祖母は何度も大病をしましたが94歳まで生きました。亡くなる前の10年間は不本意なことばかりだったと思います。祖父が亡くなったのは年の順ですし、ある程度仕方ないと諦めがつきますが、頼りにしていた父が難病で弱っていき、亡くなってから祖母はだんだん物忘れがひどくなりました。
自宅で祖母と父を介護していた母は脊椎を2か所圧迫骨折して、父が亡くなった後寝込んでしまいました。
祖母は近所に「母が盗った」というようになり、見かねた私たちが、施設に祖母を入れました。祖母は「追い出された」とカンカンで、施設に行ってもいつも不機嫌でした。「死にたい」「しんどい」という祖母の相手は気が滅入りました。お見舞いに行くとどっと疲れて帰る気がしました。
そのころの私は子育てに忙しく、母の体調も心配で祖母の寂しさに寄り添う余裕がありませんでした。
祖母が亡くなったのは2月の初めでした。葬式の日の最低気温は氷点下5度でした。祖父や父の葬式は祖母の希望もあり、できる限り正式にきちんとしたお見送りをしましたが、祖母の時は寒い時期でもあり、そっとしたお葬式にしました。
そして葬式が終って2日後の明け方、祖母が尋ねてきました。
私のおへそのあたりを引っ張られるように暗いトンネルのような土間のようなところを通り過ぎて、出たところは一面のすすきの野原でした。
祖母は若くてふっくらして、にこにこと笑顔でした。祖父と父、そして髷を結った若い綺麗な女の人が一緒にいました(祖母のお母さんでしょう)。迎えに来てくださったんだな、もう祖母は淋しくないのだなと思いました。私とみんなの間にも、すすきがありました。すすきは背が高い植物ですが、その上にみんながいるように見えました。手を振って見送りました。良かったね、おばあちゃん、ありがとう、と目が覚めても側に祖母がいるようでした。
どこかで見たことがあるような、ありふれたお別れの風景でした。祖母は遠くに行ったわけではない、また会えるという気がしました。
そして祖母を見送った一月後、今度は夫の祖母を見送りました。その時は全く違うお別れをしました。
夫の祖母は武蔵坊弁慶の末裔である、と聞いています。ということは夫も、子供たちもそうなのでしょう。DNA鑑定をしたわけではありませんし、勝手に言っているだけかもしれません。
夫の祖母は大正元年生まれで、終戦の時は満州にいて、苦労して引き上げたそうです。4人の子供を1人も欠けさせることなく連れて帰ることができたのは本当に恵まれていた、と話していました。それから実家に戻り(婿取りの家付き娘だったため)ました。
山奥の谷間にある一軒家で、敷地には牛小屋の跡があり、そのそばの木にフクロウの巣があり、谷には一面梅の木が植えてある、そんな日本昔話に出てきそうな家でした。
夫を早く亡くし94歳まで一人暮らしをしていましたが、うちでお世話をすることになりました。私たちが同居していた舅が長男で会ったこと、私の夫がその長男であったことが理由でした。脚が不自由で、耳が遠かったのですが、頭は確かでした。孫嫁に世話になっているということで、私にはずいぶん気を使っておられました。
実家の祖母が前述の通り気取っていたので、「おばあさま」と呼ぶと、「頼むから『ばあちゃん』と呼んでくれ」と言われたので、ここでもばあちゃんと書きます。ばあちゃんは信仰熱心で朝夕、ご先祖にお題目を上げておられました。
食事を運ぶと、「今日のおかずは色がきれいじゃのう」とか「今日はおおご馳走じゃ」とか「あんたは始末がええのう(やりくり上手であるということ。つまり安いおかず)」とか、なにかしら褒めてくださいました。
本当に弱って入退院をするようになり、うちでお世話ができなくなって施設に入ってからも穏やかでした。そして103歳で静かに亡くなりました。
葬式の数日後、今度は険しい山のふもとに私は1人でいました。そこへ輿(こし)に乗ったばあちゃんが随神様2人(2柱?)を従えてやってきました。ばあちゃんは私の方を見ることなく真っすぐ前を向いていました。山のふもとまでばあちゃんがきた時、随神様のお1人が私の方に向き直ってパッと掌をこちらに向けられました。「見送りご苦労!」と言われたような気がしました。ばあちゃんを乗せた輿はスーッと高い山に登っていきました。
ばあちゃんは、遠いところに行ってしまいました。私たちを見守ってくれている、というよりも日本を、世界を守る神様か仏様になったのだと思いました。
祖母とばあちゃんと、お別れの違いが何であるのか私にはわかりません。対照的なお別れでした。