老子が教える、がんばりすぎない生き方
こんにちは。今日は、2500年前の智恵者・老子の言葉を借りて、私たちがついつい陥ってしまう「意識しすぎた善意」や「知識の罠」についてお話しします。
「徳」にはランクがある?
老子は、人間が持つ「徳(心の豊かさや善い行い)」には、実はランクがあると言いました。
【最高ランク:上徳(じょうとく)】
自分が良いことをしている自覚すらなく、ただ自然に振る舞っている状態。見返りも求めず、計算もありません。
【次点のランク:下徳(げとく)】
「徳を積もう!」「良い人だと思われよう!」と意識して行うこと。老子に言わせれば、これは少し「わざとらしい」状態です。
さらに老子は厳しいことを言います。最高の「徳」が失われると、代わりに現れるのが「仁(思いやり)」「義(正義感)」「礼(礼儀)」だというのです。これらは一見素晴らしいものに思えますが、実は「作為(わざとらしさ)」を含んでいます。
「出世のために礼儀正しくする」「正論で人を打ち負かす」「知識で優位に立とうとする」。これらは実を伴わない「あだばな(咲いても実を結ばない花)」のようなもの。自分を良く見せようと知識で武装すればするほど、人間は本来の純粋さを失い、かえって「愚か」になってしまうと老子は警告したのです。
「よこしまな知識」と「真理」の違い
では、私たちは何も学ばなくていいのでしょうか?
結論から言うと、「知識を学ぶこと」自体は全く問題ありません。 大切なのは、その「使い道」と「出どころ」を見極めるバランス感覚です。
知識には、大きく分けて二つの性質があります。
よこしまな知識(作為的):
社会的な利益を得るため、あるいは自分を大きく見せるためのテクニック。これには限界があります。なぜなら、根底に「エゴ」があるため、いつか必ず息苦しくなるからです。
真理(本流):
宇宙や自然の法則に従った、飾らないあり方。川の流れのように、無理がなく、執着がない状態です。
私たちは、知識を「自分を飾る武器」としてではなく、「真理という土台の上で使う道具」だと考えるべきなのです。
知識は「道具」、真理は「土台」
これを料理に例えるなら、「真理」は新鮮な素材そのもの、「知識」は調味料です。
どれほど高価な調味料(知識)を使っても、素材が悪ければ本当に美味しい料理(豊かな人生)にはなりません。まずは素材である「自分自身のあり方=真理」を整えることが、何よりも大切なのです。
もっと「ゆるく」自分に戻ろう
わざとらしい知識で自分をガチガチに固める必要はありません。
「~すべき」「~したほうが得だ」という計算を一度手放して、もっと「ゆとり」を持って過ごしてみませんか?
本流である「真理」に身を任せ、知識はあくまでそれを助けるスパイスとして使う。
その時、あなたは意識せずとも、周囲に安心感を与える「最上の徳」を備えた人になっているはずです。
このブログでは、老荘思想や小林正観(40年で10万人以上の人生相談に乗って来られた人)をベースに、人生を楽に歩む真理について公開していきますので、楽しみにしていてください。