私立高校の入試まで、あと七日。
その数字は、カレンダーの上ではただの「7」なのに、
さとみにとっては、胸の奥に沈む鉛のように重かった。
学校の先生は言った。
「私立は大丈夫。でも府立は、よく考えた方がいい」
その言葉は、まるで薄い紙に包まれた刃物のようで、
優しさの形をしているのに、触れると痛かった。
家に帰ると、母は夕飯を作りながら、
「無理しなくていいのよ」と言った。
その声もまた、優しいのに、どこか苦しかった。
だけど、リバティの木村センセだけは違った。
「勉強すれば、公立も大丈夫だ」
その言葉は、根拠のない励ましではなく、
静かで、重くて、揺るぎない。
ただし、とセンセは続ける。
「勉強しないでも合格するとは言っていない」
その正直さが、さとみには救いだった。
その日のリバティは、いつもより静かだった。
冬の夕方の空気は冷たく、窓の外の街灯がぼんやりと滲んで見える。
数学のプリントを前に、さとみは鉛筆を握りしめた。
数字が、記号が、線が、
まるで自分を試すように並んでいる。
「この問題。明日また学校の自習時間にきちっと復習しておくといい」
センセの声は、いつものように落ち着いていた。
焦らせない。
甘やかさない。
ただ、前に進むための道だけを示す。
「ウイっす!」
口では軽く返したけれど、
胸の奥では、何かがぎゅっと締めつけられていた。
センセは続ける。
「入試当日はできなくてもいい問題だけれど、
練習の時はきっちり解いておかないと、気持ちがずるずるしてしまうからな」
「はい。やってきます!」
その瞬間、さとみは気づいた。
センセは「できるようになれ」とは言わない。
「やっておけ」と言うだけだ。
未来の結果ではなく、
今の一歩だけを求めてくれる。
だから、苦しくても前を向ける。
帰り道、さとみは空を見上げた。
冬の星は、冷たくて、遠くて、でも確かに光っていた。
自分は、どこまで行けるんだろう。
府立に挑戦していいのだろうか。
私立に逃げた方が楽なんじゃないか。
そんな弱さが、胸の奥で渦を巻く。
でも、センセの言葉がふっと浮かぶ。
──今できることから、一歩ずつやればいい。
その「一歩」は、誰かに比べる必要はない。
昨日の自分より、ほんの少し前に出ればいい。
歩きながら、さとみは小さく息を吐いた。
白い息が、街灯の光の中でふわりと揺れた。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく、
自分にだけ届く声でつぶやいた。
まだ終わっていない。
まだ、始まってもいない。
一週間後の自分がどうなっているかなんて、誰にもわからない。
でも、今の自分は、確かに前を向いている。
それだけで、十分だった。
その夜、机に向かったさとみは、
プリントの一番上に小さく書いた。
「一歩ずつ」
センセの声が、背中を押してくれている気がした。