劣等感を克服するための心理学③:自分を大切にする人は他人も大切にする
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では、一体、自分の何を知ればいいのでしょうか。それは「自分の良さ」です。あまり、コンプレックスの固まりになってしまうと、「自分にいい所なんか1つもない!」などと悪い意味で開き直ってしまったりしますが、決してそんなことはありません。「どんな人にも必ず1つは取り柄がある」ものです。この延長上に「個性の発揮」「自己実現」というテーマが出てくるのですが、「自分の良さ」を見つけることは、第3章⑤で言う「物事のプラス面を見つける努力」を自分自身に向けるということに他なりません。なぜ、これが大事であるかというと、「自分の良さ」を発見しにくい人は、「他人の良さ」もまた発見しにくい人であるからです。逆に「自分の良さ」を見つける努力をしていくと、「他人の良さ」も見出せるようになり、そうすると「自分を大切にする人」となって、同時に「他人も大切にする人」となっていくことができるのです。
ここで大切なことは、「自分を大切にする」ということは、「自分のやりたいようにやる」ということではないということです。この点で鋭い洞察を示したのが心理学者のエーリッヒ・フロムです。彼はナチスを受け入れていったドイツ民族の集団心理の分析でも卓抜したものを示しましたが、その一方で酒や麻薬、異性関係に溺れる人の心理構造に関して、彼らには「自分がかわいい」「自分の欲望のままに好きなように生きている」といった「自己愛の心理」どころか、その根底に「自己憎悪の心理」があることを見抜いて、世の人々をアッと言わせました。実際、こういう人々は、「分かっちゃいるけど止められない」(これこそ顕在意識・表層意識・理性では理解していても、潜在意識・情念の欲望に勝てないという状態です)状況にありますが、その根底には「こんな自分なんかどうなっていいんだ」という「自己憎悪」があるというのです。もしも自分を本当に大切にする気持ちがあれば、欲望に流されてダメになっていく自分をそのまま放っておけないはずですが、そこで投げやりになってしまっているわけです。
【コラム】
ノーベル平和賞を受賞した有名なマザー・テレサはカトリックの修道女ですが、インドのスラム街で彼女がやったことは、行き倒れの人を近くにあったヒンズー教の大寺院にある長椅子の上に運び込み、介抱することでした。これに気づいたヒンズー教徒達は驚いて(それはそうでしょう、何しろヒンズー教の聖域に異教徒がどかどか入り込んで勝手なことをやっているのですから)、彼女を殺しかねない人もいたそうです。彼女は毅然として言いました、「どうぞ殺しなさい、私は天国に行きます。でも、私が死んだ後は、あなた方でこの施設をやってくだいさいね。」これが世界に衝撃を与えた「死を待つ人の家」の始まりとなりました。彼女の頭の中にはカトリックもヒンズー教も区別する気持ちはなかったのです。
インドでは世間に見捨てられ、物乞いをして生き、誰からも知られることもなく路上で死んでいく人が無数にいます。マザー・テレサは、こうした放っておけばあと数時間で確実に死ぬような人をわざわざ連れてきて介護し、体を洗い、最期を看取るのです。「どうして数時間で死ぬような人に対して、お金も人材も場所も割くのですか。それを必要としている人に回せばもっとたくさんの人が救えるのではないですか」と疑問を持つ人もいますが、マザー・テレサには「人間にとって最も悲しむべきことは病気でも貧乏でもない、自分はこの世に不要な人間なのだと思い込むことだ」という確信がありました。そうした行き倒れの人達を丹念に洗い清め、散髪し、清潔な衣服に着替えさせて、温かいスープを口に運びながら、「あなたも私達と同じように、望まれてこの世に生まれて来た大切な人なのですよ」と手をしっかり握って話しかけるのです。すると、死ぬ寸前に初めて人間として認められ、大切にされて、涙を流しながら喜んで死んでいくというのです。
マザー・テレサは1人1人に対してイエスに接するように仕えたといいます。彼女はよく「私はソーシャル・ワーカーではない」と言っていたそうですが、単なるボランティアをしていたという意識はありませんでした。彼女は自分に対する神の願いを知り、目前の1人1人に対しても同様に神の願いがあって、神がその人を愛していることを具体的に形にしようとしていたのです。マザー・テレサのような人生はなかなかできることではありませんが、彼女こそ自分も人も大切にした人物だと言えるでしょう。