ー えんたくの、しずかな物語 ー
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定年の日。
田中は、誰もいなくなった職員室で、
一人、机を片づけていた。
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四十年。
教えた生徒は、何百人もいる。
けれど、特別な思い出があるわけでもない。
野球部を甲子園に連れていったわけでも、
不良を更生させたわけでもない。
ただ、地味に、国語を教えてきただけだ。
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「先生って、印象薄いですよね」
若い同僚が、悪気なく言った言葉が、胸に残っていた。
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俺の四十年は、何だったんだろう。
空っぽの机を拭きながら、田中は思った。
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校門を出ようとした時、初老の男が、立っていた。
スーツ姿で、緊張した面持ちで。
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「田中先生、ですよね」
覚えのない顔だった。
男は、ぎこちなく頭を下げた。
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「三十五年前に卒業した、山田と申します。
今日、先生が定年だと、息子から聞きまして。
うちの子が、この学校に通っているんです」
「……それは、わざわざ」
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「先生は、僕のことなんか、覚えてないと思います。
目立たない生徒でしたから。成績も、まんなかで。でも」
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男は、鞄から、丁寧に折りたたまれた、黄ばんだ紙を取り出した。
一枚の、作文用紙だった。
三十五年しまわれていたのだろう、折り目が、白くすり切れていた。
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「これ、先生が返してくれた、僕の作文です」
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広げられたマス目の、最後の余白に、
四十年近く前の、田中自身の赤ペンの字があった。
『君の文章は、飾りがないが、誠実だ。その誠実さは、いつか、君を助ける。』
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田中は、まったく、覚えていなかった。
何百枚と書いた、赤ペンの、一つだ。
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「僕、あのあと、ずっと自信がなくて。何をやってもダメで。
でも、苦しくなるたびに、これを読んだんです。
『誠実さは、いつか助ける』って。
それだけを頼りに、生きてきました」
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男は、目を潤ませて、言った。
「今、僕、小さな工務店をやってます。誠実だけが取り柄の。
先生が、そう言ってくれたから、
誠実でいいんだと、思えたんです」
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田中は、何も言えなかった。
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自分が、忘れてしまった、たった一行が。
四十年、一人の人間を、立たせ続けていた。
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「先生が、この学校から、いなくなる前に。
どうしても、直接、お礼が言いたくて」
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田中は、四十年で、いちばん深く、頭を下げた。
教え子に、頭を下げた。
「……こちらこそ。覚えていて、くれて」
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帰り道。
空っぽだと思っていた四十年が、
急に、重く、あたたかく、感じられた。
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人は、自分が何を残したかを、
たいてい、知らないまま、生きていく。
それでも、確かに、残っている。
誰かの、いちばん苦しい夜を、照らす、一行として。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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私、若いころは役者で、劇団もやっていました。
人に台詞をつけて、ダメ出しをして、舞台に立たせる。そういう仕事です。
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たくさんの言葉を、若い役者にかけてきました。
ほめたことも、きついことを言ったことも、あります。
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正直に言うと、どの言葉が、誰に、どう残ったのか。
私には、ほとんど分かりません。
きつく言いすぎて、傷つけたことも、あったと思います。
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ずっとあとになって、当時の役者から、
「あのとき言われた一言で、続けられました」
そう言われたことが、何度かあります。
私のほうは、まったく、覚えていない言葉でした。
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人は、自分がかけた言葉の行方を、知らないまま生きていく。
田中先生の話を書きながら、そのことを、ずっと考えていました。
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今は会社で働きながら、夜と休みの日に、タロットの鑑定をしています。
ご相談を読んでいると、よく気づくことがあります。
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人は、たった一言に、長く縛られたり、長く支えられたりする。
「お前には無理だ」と言われた一言。
「あなたなら大丈夫」と言われた一言。
何十年も前の言葉が、いまの一歩を、止めていることがあるんです。
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そういうとき、私は、カードと一緒に、その言葉を、そっと取り出します。
それは、ほんとうに、いまのあなたを縛っていい言葉ですか、と。
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カードは、答えを出す道具ではありません。
あなたが、自分でその一言を置き直す。その背中を、押すだけです。
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もし、ずっと胸に刺さったままの一言があるなら。
一度、その重さを、一緒に量ってみませんか。
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えんたく