北村敦
「かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂」
これは、至誠を貫いた、吉田松陰の歌です。
下田踏海(1854年)から、
安政の大獄での刑死(1859年)まで、
年齢でいえば二十五歳から三十歳までの、
五年半が吉田松陰の最も活躍した時期
なのですが、何とこの期間の半分近く、
(二年六カ月)が、獄中生活だったのです。
全く自由を奪われた状態の中で、
松陰は社会を動かし、人々を感化し、
自己を磨くことに努めたのです。
「死を求めもせず、辞せもせず。
獄にありては、獄でできることをするのみ」
(訳)
「自分の信念でやって罪を得たのだから、
死を恐れないし、逃れようとも思わない。
獄中にあっては、獄中でできることを、やるだけである」
松陰は、
「孤独は絶好の勉強時間である」、
「とらわれの身となり、牢内で過ごしているが、
書物を読み道理を考えていると、
落ち着いて自分を見つめることができ、
牢屋暮らしを苦しいと思う暇もない。」
との言葉も残しています。
また、
「知は行の本であり、行は知の実である」
と言い、学問をしても、
知識がついたというだけでは満足できない。
これをどう生かすか、
どう社会に役立てるかという考えが、
松陰を実践行動へ突き動かしたのです。
吉田松陰と言えば、「松下村塾」で有名です。
教える者の情熱が、学ぶ者の心によしやろうという火をつける。
松陰の教育は、孔子やソクラテスの教育と同様に、
「対話」が原点でした。
「君なら、これに対して何をするか?どうするか?」と問いかけ、
それぞれの立場で議論していくというものでした。
松陰は、
「どんな人間でも教育をすれば、それぞれ社会に役立つ人になる」
との信念で、学びに来る人を、決して拒みませんでした。
入門者は、士農工商すべての階級にわたりましたが、
中でも多かったのは、足軽、小者の青少年たちだったようです。
松陰の一番弟子である高杉晋作が、手紙で、
「男児たる者は、どう生きどう死んだらいいか」
と問いました。
それに対し、松陰は、
「この世に体は生きているが、心は死んでいる者がいる。
体はほろびたが、精神は生きている者もいる。
心が死んでいては、生きていても益はないし、
心が立派なら、死んでも決して、そのままに終わるはずはない。
ゆえに、死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」
と言い、法廷においても、
自らこの通り実践したのです。
松陰は、思想は死なないと信じていました。
刑死する前日に、最後の力を振り絞って、
「留魂録」を書きました。
「身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
とどめおかまし 大和魂」
「大和魂」とは、日本人が本来持っている、
いいものはいい、悪いものは悪いと、
素直に柔軟に対応できる心です。
この辞世の歌を書き出しに書き残し、
教育者としての私に影響を与えた吉田松陰は、
三十歳の生涯を終えたのです。
実は、吉田松陰に憧れた私は、20歳の時、住んでいた下宿に、
近所のやんちゃな中学生を、10人ほど集めて、塾を作り、
「松下村塾」と名づけて、教えていたのですよ(笑)
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