第二部|神様との距離
第三話|神様なんているわけない
高校生の頃になると、神様がいるならこんなに苦しいはずはないという母の子供っぽくも聞こえる発言を信じるともなく、まあそうなんでしょう、と思うようになっていた。
幼い頃からアルコールでの問題が絶えなかった父の状態は、年々年を追うごとに悪くなっていた。
家の中には、アル中の人が発する独特の酒が体内の臭気と混じるような臭いが常にあった。そんな家に私は友達を連れてくるなんて考えることもできなかった。なぜなら私はもちろん父親のことを学校で話したりしないし、むしろそれが育ちの悪さだと簡単に片づけられることは知っていたから、自分では嫌でも、他人の前ではいい親であると思ってもらいたかったし、そんなことを知られる勇気なんて私にはなかったから、ひた隠しにし続けることが当たり前になりすぎていた。
高校生の兄は、そんなことはお構いなしに開き直っているようだった。だから、日がな友人の多い彼は家に友人が遊びにきた。
そんな時でも、何も判断なんてできない父は酒を欲しがり、大声で叫び、怒り、まともに歩くこともできずに転んだ。そしてもちろん汚物の始末もしなければならなかった。
父の代わりに会社を切り盛りする母は忙しく、ほとんど家にいなかったから、私はとにかくより長い時間父が家にいないか、寝ていてくれることだけを望んで、忍び足で生活していた。
そんな生活は物心ついた頃から続いているから、いつが辛かったとかはなくても、中毒患者特有の精神と関わる、いい時期と悪い時期との交互の波には慣れっこだったけど、この高校生の頃は、父の状態の悪化や、他の家族の不在や、何をするにも一緒で、いつも私を守ってくれた兄が、もうそんな風にするのを止めてしまったことから、ハッキリと何とは分からないけど、私は限界だったのかもしれない。
この頃の私は、理由もなく授業中に涙が流れて止まらないことがよくあった。そんな不可解で、情緒不安定な様子をまさか人に見られたくなくて、自分でも考えないようにしてた気がする。
そんな高2の夏のある日、私は友達と学校の帰り道の寄り道で、五十鈴川に寄った日があった。私にとって友だちとの時間は楽しかったし、生活の話をしないとしても、それ以外にわだかまりがある訳でもなければ、十分に心を開いて笑い合っていた。
そんなある日の放課後の五十鈴川での時間を私は一生涯忘れないと思う。
それは、清々しいまでに心を解き放った日の思い出として。
私たち5人は、川岸で靴や靴下を脱いでぴちゃぴちゃしながらお喋りをしていた。やがて、誰となくもう少し足を付けたくなって、うだる夏の暑さの中、水遊びを続けた。すると私は、そのままもっと奥に進みたい衝動にかられ、気付くと腰まで水につかった私の制服のスカートは、水にぼわっと浮いていた。そこまで来たら何の躊躇があろうかとばかりに、私は制服のまま川で泳いだ。冷たい水で、どこまでも気持ちよく、ただただ泳ぐこと、水に流されることだけに心も体も喜び浸っていたように覚えている。
そして、そこにいて一緒に泳いだ友だちも、足を付けて遊んでいた友だちも、誰一人として、この気持ちいい私たちの遊びを止めたりしなかった。ただ全てが美しく心地よかった。
この夏のある日の出来事は、気付かず内に涙が流れてしまう程に追い詰められていた私の心を救ったんだと、後になって思ったりする。
また、学校に行き、授業を受け、友達と笑う。
ある瞬間に、突然涙が流れる。その涙が心が壊れるのを人知れず救っていたように。
私たちの内5人ともが誰も制服で泳ぐことを否定しなかったように、半乾きの制服で帰宅した私を母は何も聞きもしなければ、咎めもしなかった。
それは、善意の無関心のようなもので、お互いの何かをあえて言わない関係を保つことで均衡を保つようになっていたからだし、昔の親はそんなものだったようにも思う。それが無関心で寂しいとかではなく、大変な大人を困らせたくない私にはちょうどよかった。
夏の暑い日の午後。
冷たい川の水で遊んだ記憶。
もしかすると、あの頃の私にとって、一番気持ちのよかった思い出だったんじゃないかと思ったりする。
あれから長い年月が過ぎた。
最近になって、あの日の五十鈴川のことを、再び鮮明に思い出して、ふと思った。
あれは、禊のようなものだったのではないだろうか。
洗礼のように、私の心を洗ってくれた時間だったのではないだろうか。
高校生の私は、神様を信じていなかった。
もし神様がいるのなら、どうしてこんなにつらいことが起こるのだろうって、そんなふうに思っていた。
けれど、あの日の私は、何かを祈ったわけでも、救いを求めたわけでもなかった。ただ、泳ぎたかった。冷たい水の中で、何ものにも遠慮せず、自由に泳いでいた。あの冷たかった川の水が、荒んでいた私の心を洗い、何とか自分を失わずに過ごしていくための力を与えてくれたのかもしれないと。
今私は、大御神様の光の下で泳いだ記憶を思い出している。
大御神様の光に導かれる日が訪れた後になって、ちゃんと分かるのは、大御神様は、どんな反抗期の子供にも、大御神様に見向きもしない時にも、同じ光で見守っていてくれたんだということ。
だからこそ、私はあの日の川の気持ちよさを、大きな光に見守られていた魂の記憶として思い出す。