第一部|祈りの空気 第四話

第一部|祈りの空気 第四話

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第一部|祈りの空気
第四話|こわっ、宗教じゃん

以前、学校で生徒たちに、私が幼稚園の頃に唱えていた「いただきます」の話をしたことがある。
「大御神様、お父様、お母様、今日も美味しいご飯をありがとうございます。いただきます。」すると、一人の生徒が言った。
「こわっ、宗教じゃん!」

その言葉は、今までの色んな事が起きる仕事の中でも、強く印象に残るものだった。

もちろん、その生徒に悪気があったとも思ってないし、聞き慣れない言葉に、思わず反応しただけだったんだろうと思っている。
でも、あまりにも当たり前の言葉「いただきます」だっただけに、驚いた。
毎日の食事に感謝すること。神様に手を合わせること。そこには、何か特別な思想を持っているという意識などもちろんなかったし、ただの「いただきます」に「大御神様」という言葉がが加わるだけで、怪しくなるとも思っていなかった。神道とか仏教とかもオーソドックスなものが怖さを与えることはないだろうと信じていたからだ。
「大御神様」という言葉が、生徒には初めて聞くものだったのかもしれない。
それでも、私が日本人としてごく自然に受け継がれていると思っていたものが、こんなにも違う響きを持つことに驚いた。

思い返せば、私は幼い頃から、宗教に対する警戒心が世の中にあることを知っていた。父は、繰り返し言っていた。「宗教だけはあかん。」それは祖母が天理教に多くのお金を使っていたことが、背景にあった。

父は、祈りを否定する人ではなかった。
伊勢神宮への参拝も、自宅の神棚や仏壇も大切にし、会社のために毎年京都の伏見さんまで家族で祈祷をあげてもらいに行くのは恒例行事にもなっていた。毎日の「いただきます」も、父にとって大切なものだったから、食事をいただく大切さも教えてくれた。

父が強く否定していたのは、信仰そのものではなく、お金を注ぎ込むことで心が救われるという考え方だったのだと、私は受け止めていた。だから私は、父の「宗教だけはあかん」を聞いても、自分が日々している祈りに何の影響も感じなかった。祈ることと、宗教という名のもとで行われるすべてのことを受け入れることは、同じではないと大きくなるにつけて、よく理解するようにもなっていった。

けれど、世の中には宗教という言葉を聞いただけで警戒する人がいることも、幼い頃から知っていた訳だから、人が宗教を怖いと感じることには、理由があるのも分かっている。
そこには、大切な人を守りたいという気持ちもあれば、実際に人が傷ついてきた歴史もある。知らないものに慎重になることは、決して悪いことではない。ただ、いつの間にか、危険な行為を警戒することと、見えないものを信じる祈りそのものを怪しいと感じることが、混同されてはいないかと考えてみて欲しいな、とその時私は生徒に対して思ったけど、それ以上伝え続けはしなかった。その場では難しいこともあるだろうと感じたから。

私たちの社会では、初詣に出かけ、神社やお寺で手を合わせ、亡くなった人を偲ぶ。その一方で、神様の名前を口にしたり、目には見えない存在について語ったりすると、急に「宗教」や「スピリチュアル」という言葉で分類しようとする。

興味を持てばスピリチュアル。
警戒すれば、怪しくて怖いもの。

けれど、その呼び名によって、人が大切にしている心まで変わるのだろうか、と。そして、自分にとって自然なことが、誰にとっても自然とは限らないのだということの隔たりにあるものについて、あらためて考えてみた。

ただ、難しいことを考えずに、私は大切にしていきたい。
幼い頃、私は祈りの意味など知らなかったけど、祈ることはできた。
あの頃の私が大切にしていたものは、今も変わらずただ心の中にある。
それを何と呼ぶかよりも、それこそが祈りなんだと思う。
純粋な気持ちで光を見つめることに、社会が喜ぶ他の要素がくっつきそうになることを避けられるくらいには、澄んだ心のままでいたいと私は思う。

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