第一部|祈りの空気 第三話

第一部|祈りの空気 第三話

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第一部|祈りの空気
第三話|暮らしと祈り

私の祖母の家には、毎週日曜日になると、檀家になっているお寺の和尚さんがお経を上げに来てくれていました。
和尚さんが来る8時までに、朝の支度を全て済ませることは幼い頃は苦にもしなかったのに、年を追うごとに急がないと、と思っていた記憶があります。

家の前に、ブーンとバイクの音がして止まると、「おはようさん」と和尚さんが入ってくる。
それは、ごく当たり前の訪問で、誰かが緊張するようなこともなく、気付くと和尚さんは仏壇の前のお座布団に座って準備を始めている。
支度を整える背中をぼーっと眺めていると、徐にお経を上げ始める。
そのお経も、御勤めが終わった後の説法の様な世間話も、長くて退屈だと思った記憶もなく、当たり前の日常の一コマだった。
これは、どこの家にもある日曜日の様子だと思い、何か特別なものとも思っていなかったし、宗教という言葉も、幼稚園の神様との違いも、その時の私は何も知らなかった。でも、大げさな話ではなく、祖父母がなにか大切にすべきものを家の中心の棚の中に置いているんだとは思えていたように思う。
そして、そこでは周りに真似て手を合わし、お経を呟くんだとはわかっていた。

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和尚さんが来る日だけが仏壇との関りではなかった。
祖母は毎朝起きてすぐ台所に立った。朝の炊き立てのご飯は、いつも一番最初は仏さんのためだった。
「仏飯さん、お仏壇に上げてきて」と頼まれると、居間の仏壇に持っていく。チンと鳴らして、手を合わせる。それは仕事を頼まれる喜びの様な新しい朝の爽やかなやる気を感じられる行動だったと思う。

そんな日常の何気ない誇らしさは、幼稚園の神棚のお仕事ほどでなくても、同じようなことだったように今になって思ったりする。

お供え物だ違うとか、やり方が違うとかは、場面の切り替わりのように理解していて、こっちは神様で、こっちは仏様というような難しいことを考えたこともなければ、幼い頃から洋画を見るのが大好きだった私は、その中で語られるキリスト教すら、同じように心の中で大切なものとして置いておくものと思っていた。

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また祖母は、日がなやんちゃにしている私たちに、「お天道様がみとるよ」とよく言った。
大声で叱る代わりに、ただ、「お天道様がみとるよ」と。
「そんなことをしたら罰が当たるよ」という意味だと分かるときもあれば、「ちゃんとしないと」と思うときもあった。
お天道様が誰なのかなんて知らなくても、子供心に空を見上げればいつも何なのかも、私は考えたこともなかったけど、私たちは誰も見ていないときにも、私の心の中のお空にはお天道様いて、見守ってくれているんだと、少し背筋を伸ばしながら自然と受け止めていた。

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大御神様。仏様。お天道様。イエス様。
今なら、それぞれを別のものとして説明することができるような気もするけど、子供心におんなじみたいだと思っていたことは、満更でもないと今改めて思う。

何を置いているのか分からない棚に手を合わせることは、私の心が自分の中の見えないものを信じ続ける力を育ててくれた。
でも、そこでは手を合わせる。

「特別ではない」は、「大切ではない」とは違うから、あまりにも当たり前に大切は、ちゃんと大切なものとして抱え続けることができている。

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祈りの意味を知らなくても、大御神様が誰なのかも知らなくても、仏飯さんは黄色いご飯じゃダメだってわかる。

それは、「いただきます」が、大御神様と全てのものに感謝するおまじないの挨拶だと分かるのと同じように。

仏飯さんをなぜ一番最初にお供えするのかも、和尚さんのお経が何を言っているのかも、お天道様がどこから私を見ているのかも知らなかった。

私たちは、祈りの意味を理解するよりもずっと前から、暮らしの中に祈りをもっている。


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