第一部|祈りの空気
第二話|ここには何にもないね
今年の夏、帰省して、内宮に参拝していた折、正宮の前で私のちょうど後ろにいた小さな男の子が、
「ここに神様いるの?ここの神様は何もないね?カーテンだけ。」と言っているかわいい声が聞こえてきました。
何となく微笑んでしまった私は、自分の幼い頃を思い出したようでさえありました。
きっとその男の子は、遠くから来たのかもしれない。旅行に来て、鳥居をくぐってから歩いて今か今かと辿り着いた神様は、白いカーテンのかかった木造のお家にいるらしい。お木曳の年を迎えたお宮は真新しい綺麗さとは違う、屋根に草が生えて少しずつ木も変色してきている。その様子に、ここにママたちが言う大きな神様がいるの?という素朴な思い。
目の前の大御神様も頬を思わず緩めてお聞きになっていたのではないかと思う。それは、色々な成長の過程の中で、時に突拍子もなく、時に酷くわがままで、自分だけでも生きていけそうな傲慢さを見せる子どもを見守る親のように。目くじらを立てて怒るよりも、それは人生の道すがらであると知っている人の見せる余裕をもって。
私が今そう思えるのは、色々な酷い考えを心に持ちながら、その気持ちを抑えきれないで、親に対して不機嫌に分からず屋な行動をするように、大御神様に対してそんな気持ちを抱いていた10代の私も、大御神様がなんであるかも知らずに、玉砂利を引きずって歩いてみたり、馬を見る為だけを楽しみに公園のように神宮に訪れていた幼い頃の私も、全部を今大御神様が光で受け止めてくださることが分かるからです。
手水舎にはかっこいい龍もいなければ、朱色の荘厳な美しい装飾を施したお社もない、大御神様のお宮は、きっとあの頃の私にも、この夏に出会ったあの少年にも、少しどこか寂しく、これだけでいいの?と思わせたのかもしれない。
そして、私にとっては、その何もなさは、格好のお散歩コースであり、神を疑う場所にもなっていったのです。
木々の生い茂る美しい神の地は、子どもの私には少し地味な場所で、「遠足で行くよ」と言われても、太陽が燦々と降り注ぐ、開けた遊具のある公園にいくような気分にはなれず。
少しほの暗くて、じめっとしていた、その空気を「厳か」と呼ぶことができるとは知らなかった。
そこが神様のお庭だからと、ありがたがって歩いていたわけでもない。小学校で、江戸時代の人は、「人生に一度はお伊勢参り」と言って…と言われても、へぇ、としか思えなかった。大学の時、カンタベリーテイルズを読んで、面白いなあと思った時にも、まだ私は14世紀の英国人の気持ちも、お伊勢参りをする江戸の民衆の感情も自分に重ねて考えることもできず、ただ巡礼の旅路で垣間見るそれぞれの人間の人間らしさを面白がる気持ちだけだった。
子どもにとって自分の周りの世界は、いつもの景色にすぎない。
そんな子どもの忖度のない言葉にふと幼い頃にもどったような気持だった私は、「見えないからいないんじゃない。」を伝えられるのは、見えないから、いないと思っていたからなのかな?って思ったりした。
**何もないように見えるのと、何もないのとは違う。**
神様の声が聞こえるようになり、姿が見えるようになった今、私が思うのは、私は何も変わっていない。
神様は、声が聞こえるようになったとき、「よく帰ってきてくれた」と言ってくれた。それは、何もないと思っていた頃から、ずっとずっと見守ってくれたということ。
そんなどこまでも広がる大きな愛の光に包まれて、私たちは生きている。
神様が見守ってくれているのは、見える人だけでも、声が聞こえる人だけでもない。私はそれを一人でも多くの、心のどこかで何もないかもしれないと思いながら、日々の生活を懸命に生きる全ての人に分かってもらいたい。
何もないように見えるところにでもちゃんといるから、何もなくても大丈夫なんだよって声が、いつかあの男の子に届くといいな。