希望に満ちた朝に

記事
小説
今、空港バスで空港に向かっている。
行きはすごくテンションが上がっているのに、帰りはいつもこうだ。
日常生活という狭い世界に引き戻される感覚。
特に帰りの空港バスの中では、そんな感覚がピークを迎える。
これほど、日常生活から離れた所まできて、結局は何も変わっていない自分に気が付くからだろうか?
場所が変わったとしても、結局人生がひっくり返るようなことはめったに起こらない。
そのことに気づいて愕然とする。
そう、たとえ場所が変わったとしても、自分から逃れることはできないのだ。
「自分から逃れる」と言うと少し言葉が過ぎるかもしれない。
言い換えると、自分の生き方はそう簡単には変えられないということだ。
もし、場所が変わったとしても、新しい場所で相変わらず前の場所の自分として生き続ける。
ここにある男がいる。
これから男はある経験をする。まさに人生がひっくり返るような出来事だ。
いや、先を急ぐのはやめよう。
ゆっくりとこの男の話を進めてみよう。
男は道を歩いている。昼休みに近くのコンビニに弁当を買いに行こうとしている。
今日はどの弁当にしようかと考えているときが、男にとっては日常の激務の中での唯一の楽しみだ。
最近は忙しい日々が続いていたから、「自分へのご褒美」としてすこし高いタラコ弁当にしようかと考えている。
そんな比較的、気楽な時間を男は過ごしていた。
場所は都会だ。男の周りには幾多のビルが屹立している。
男はとある工事中のビルに差し掛かった。
ビルの中では作業員が忙しく動き回っている。納期が近づいていて、追い込み時期に入っていたのだ。
だが、工事現場の周りはすべて仮囲いの鉄板で覆われていたから、男がそのことに気づくことはなかった。
彼がまったくの無防備だったことが、次に起こることをさらに劇的なものにした。
そして「その時」が訪れた。
男のほんの10メートル先に砂袋がドスッと音を立てて落ちてきた。男は目の前に横たわっている砂袋を
ただ見つめていた。おそらく20キロはあるだろう。少し時間が経ってから、この砂袋が自分に与えただろう
衝撃が今更のように彼に染み込み始めていた。
この砂袋が直撃していたら、自分の体は引き裂かれ、押しつぶされ、ズタズタになって
砂袋のそばに横たわっていただろう。おそらく辺りは血の海だ。
男はその海の真ん中で彼の体の機能がすべて停止した状態で横たわっていただろう。
男はそんな悪夢を引きづったまま、上を見上げた。
視線の先には仮囲いの鉄板の上に飛び出したクレーンの腕が見えた。
おそらく何かの手違いでクレーンの腕からこの砂袋が抜け落ちてしまったのだろう。
どこかから現場の作業員が飛び出してきた。
「大丈夫でしたか?」
男はその質問に答えることができなかった。あまりにも事態の展開が早すぎて、
答えを考える時間すらなかったのだ。
10メートル先の砂袋に視線を向けたまま、男は何も答えなかった。
作業員は拍子抜けしたように「大丈夫ですね。私は戻りますね」と言って、
彼を不思議そうに眺めてから、再び、事務所に戻っていった。
彼がこの現場の建設会社を訴えるなど、何か行動を起こすのが怖かったのだ。
男は近くのビルの壁にへなへなと寄りかかり目を閉じた。
相変わらず思考停止のままだった。だが、次の瞬間、新しい考えが彼の頭に生まれてきた。
そう、それは「生まれてきた」と言っていいほど、突飛な考えだった。
「俺はここで何をしている。俺の人生はさっき終わった。
ほんの数ミリの差で俺は命拾いをした。
何か神様のような強大な力が俺を生の世界に引き戻してくれたのだろうか?
俺は無神論者だが、それがどうしたの言うのだ。
俺の人生が終わったことに変わりはない。
さあ、もう一度、聞く。
お前は一体、ここで何をしているのだ?」
男は何度もその質問を自分自身に繰り返してみた。
そうするうちに、彼の中の何かが変化していった。
彼は壁から背中を引きはがし、こうつぶやいた。
「俺は、確かにここで死んだ。
たまたま自分の2本足で立っているが、今の俺はそこで血を流して倒れている俺じゃない。
新しい俺だ。
新しい俺よ、お前はこんなところにいるべきじゃない。
新しい俺にふさわしい場所で生きるべきだ。
さあ、一歩を踏み出すのだ。」
男の目ははるか前方をとらえていた。
その目は彼がある決心を心に芽生えさせたことを物語るように輝いていた。
男の目の前を幾人もの人たちが通り過ぎた。
だが、この都会では男がいくら新しい人間に生まれ変わろうと、そんな男の変化を気にするものは誰もいなかった。
そして、男は近くの地下鉄の駅へ向かって歩き出した。
その時、男の頭の中に妻と子供たちの面影が浮かぶことはなかった。
罪悪感すらなかった。
ただ、ひたすら新しい生活を求めていた。
それが、どんな結果を招くかも彼にとってはどうでもよかった。
そして、彼は最初に来た電車に乗り込み、二度とこの地を踏むことはなかった。
その5年後、男はまったく新しい生活を始めていた。
窓からはまぶしい光が注いている。テーブルには彼と彼の新しい妻、そして、子供たちが楽しそうに食卓を囲んでいる。
まさに希望に満ちた朝。
不安のかけらすら見当たらない理想的な朝だ。
「涼くん、さあ、その目玉焼きを早く食べてしまいなさい。」
腕に抱いている赤ちゃんをあやしながら妻は言った。
「だって、パパだってずっと新聞を読んで、全然食べてないじゃないか」
男の子が言った。
「パパはいいの。新聞を読むのだってパパの大事なお仕事なんだから」
「そんなのずるいや」
男の子はそう言って、ほおをふくらませた。
男は新聞の字面を追いかけてはいたが、頭の中では他のことを考えていた。
「俺はなんて幸せなんだ。
やはりあの時、思い切って行動を起こしてよかった。
もし、俺があのまま、あの生活を続けていたら、あの時の妻も子供たちも
不幸にしていたことだろう」
もし、俺があの時、あの事故にあわなかったら、おそらくあのままの生活を
続けていたことだろう。何の疑いもなく、ためらいもなく。
だが、あの事故は起きてしまった。
事故といっても何かが物理的に壊れたわけではない。
ただ、俺の中の何かが壊れた。
そして、すべてを捨てて新しい生活を始めた。
これは仕方のないことだったんだ。
もちろん、前の妻や子供たちに対してはすまないと思う気持ちはいつも持っている。
おそらく一生持ち続けることだろう。
だが、彼らだってわかってくれるはずだ。
俺が彼らを置いていかなければならなかった理由、経緯、すべてはつながっているのだ。
だから、彼らがあの事故の一部でも知っていてもらえたらと思うこともある。
一部でも知ってもらえたら、パパも苦しんだんだってことをわかってくれるはずだ。
もちろんそれで俺の罪が少しでも軽くなるわけじゃない。
だけど、それで、少しは俺の魂も救われることだろう」
そう考えて彼はコーヒーカップを傾けて、冷めてしまった残りのコーヒーを飲み干した。
男はたった一つの明白な事実に気づいていなかった。
それはこの新しい生活が彼が捨てた生活と不思議なほど似通っているということだ。
妻は二人ともおとなしく従順で、主人を立てるタイプの妻のようだ。
子供たちは両方の生活でどちらも二人だ。男女の違いはある。
だが、それ以外はほとんど瓜二つといっていいほど、似通った生活をしていた。
男はその事実に気づいていなかった。あるいは気づいていないふりをしていたというべきか。
彼はおそらくこの生活を当面は続けていくことだろう。
そして、前の生活の影に常におびえながら暮らしていくことだろう。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す