十月に入り、銀座は新しい店が動き始める季節を迎えていた。
美月の心も、あの金春通りの店でいっぱいだった。
もう他の店を探す気持ちはなかった。
あの店しか考えられない。
あとは前のママとの条件がまとまることを祈るだけだった。
銀座で店を持つということは、普通の賃貸契約とはまったく違う。
店舗には「造作権」という独特の仕組みがあり、前の店主との条件が折り合わなければ契約は進まない。
金子さんは何度も足を運び、粘り強く交渉を続けてくださった。
私は待つことしかできなかった。
日に日に焦りは募る。
今年中にはどうしても開店したい。
でも、その願いとは裏腹に時間だけが過ぎていった。
そして十月も後半に入ったある日、一本の電話が鳴った。
『もしもし、美月さん。金子です』
受話器の向こうから、弾んだ声が聞こえた。
『今、ママさんから了承をいただきました』
私は思わず息をのんだ。
『本当ですか?』
『ようやく決まりましたよ』
その瞬間、胸につかえていたものが一気にほどけた。
『ありがとうございました。本当にありがとうございます』
何度お礼を言っても足りないくらいうれしかった。
電話を切ると、私はすぐに雅子ママへ電話をかけた。
『もしもし、美月です』
『どうしたの?』
『決まりました。あの金春通りのお店です』
『そう』
雅子ママは、自分のことのように喜んでくださった。
『あのお店なら、美月ちゃんに合っていると思ったの。目も届くし、最初のお店としてはちょうどいい広さね』
私はほっと胸をなで下ろした。
その時、雅子ママが静かに言った。
『それじゃ、今月いっぱいでうちのお店は卒業ね』
その一言で、現実に引き戻された。
私は本当にヴィーナスを辞めるのだ。
十年間働いた店。
笑った日も、泣いた日も、悩んだ日も、いつもこの店があった。
気づけば、私にとってヴィーナスは故郷のような場所になっていた。
『ええ……今月いっぱいで退店させていただきます』
そう答えた途端、涙があふれて止まらなくなった。
雅子ママは優しく笑った。
『私も寂しいわ。十年だものね』
その言葉だけで十分だった。
十年間の思い出が胸いっぱいによみがえった。
『そういえば、一日だけ休んだことがあったわね』
雅子ママは懐かしそうに笑った。
『車にはねられて救急車で運ばれたのに、その日のうちに店へ来たでしょう。あの時はさすがに帰りなさいって言ったわね』
私も思わず笑ってしまった。
そんなこともあった。
あの頃は毎日が必死だった。
『雅子ママと出会わなかったら、私は銀座にいませんでした』
私は深く頭を下げた。
『ここまで来られたのは、全部ママのおかげです。本当にありがとうございました』
雅子ママは静かに首を振った。
『いいえ。ここまで頑張ったのは美月ちゃん自身よ』
その言葉が胸に染みた。
私は少し間を置いて言った。
『お願いがあるんです』
『なあに?』
『店の名前を決めました』
雅子ママは微笑んだ。
『聞かせて』
『「クラブ 結」にしたいと思っています』
『結……』
雅子ママは、その名前をゆっくり口にした。
『私は一人でここまで来たわけではありません』
そう言って私は続けた。
『雅子ママとのご縁、お客様とのご縁、仲間とのご縁。
振り返れば、私の人生は人との結びつきに支えられてきました。
だから、その感謝を忘れないように、「結」という名前にしたいんです』
雅子ママは嬉しそうにうなずいた。
『いい名前ね。覚えやすいし、とても美月ちゃんらしいわ』
私は勇気を出してもう一つお願いした。
『それで……お店のロゴを書いてほしいのですが、、、』
『私が?』
雅子ママは少し驚いた表情を見せた。
『はい。私はママの字が大好きなんです。
看板を見るたびに、初心を思い出せる気がするので』
雅子ママは照れくさそうに笑った。
『私の字でいいのなら喜んで書くわ』
『ありがとうございます』
美月は心から嬉しかった。
すると雅子ママが思い出したように言った。
『そうだわ。開店まで時間を作って事務所へいらっしゃい』
『事務所ですか?』
『請求書の書き方も、お客様の管理も、売上のまとめ方も、全部覚えなくちゃいけないでしょう。ママになるって、接客だけじゃないのよ』
『ぜひお願いします』
『忙しくなるわよ』
『はい』
そう答えた時、不思議と不安より楽しみのほうが少しだけ大きくなっていた。
実は、雅子ママにロゴをお願いしたのには、もう一つ理由があった。
雅子ママの文字は、多くのお客様が見慣れた文字だった。
その文字が店の看板になれば、お客様に安心していただける。
美月はそんなことまで考えるようになっていた。
いつの間にか、美月の頭はホステスではなく、一人の経営者として動き始めていたのである。
こうして「クラブ 結」は、多くの人とのご縁と想いを受け継ぎながら、静かに産声を上げようとしていた。