【連載小説】第90話 受け継がれる想い

【連載小説】第90話 受け継がれる想い

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十月に入り、銀座は新しい店が動き始める季節を迎えていた。

美月の心も、あの金春通りの店でいっぱいだった。

もう他の店を探す気持ちはなかった。

あの店しか考えられない。

あとは前のママとの条件がまとまることを祈るだけだった。

銀座で店を持つということは、普通の賃貸契約とはまったく違う。

店舗には「造作権」という独特の仕組みがあり、前の店主との条件が折り合わなければ契約は進まない。

金子さんは何度も足を運び、粘り強く交渉を続けてくださった。

私は待つことしかできなかった。

日に日に焦りは募る。

今年中にはどうしても開店したい。

でも、その願いとは裏腹に時間だけが過ぎていった。

そして十月も後半に入ったある日、一本の電話が鳴った。

『もしもし、美月さん。金子です』

受話器の向こうから、弾んだ声が聞こえた。

『今、ママさんから了承をいただきました』

私は思わず息をのんだ。

『本当ですか?』

『ようやく決まりましたよ』

その瞬間、胸につかえていたものが一気にほどけた。

『ありがとうございました。本当にありがとうございます』

何度お礼を言っても足りないくらいうれしかった。

電話を切ると、私はすぐに雅子ママへ電話をかけた。

『もしもし、美月です』

『どうしたの?』

『決まりました。あの金春通りのお店です』

『そう』

雅子ママは、自分のことのように喜んでくださった。

『あのお店なら、美月ちゃんに合っていると思ったの。目も届くし、最初のお店としてはちょうどいい広さね』

私はほっと胸をなで下ろした。

その時、雅子ママが静かに言った。

『それじゃ、今月いっぱいでうちのお店は卒業ね』

その一言で、現実に引き戻された。

私は本当にヴィーナスを辞めるのだ。

十年間働いた店。

笑った日も、泣いた日も、悩んだ日も、いつもこの店があった。

気づけば、私にとってヴィーナスは故郷のような場所になっていた。

『ええ……今月いっぱいで退店させていただきます』

そう答えた途端、涙があふれて止まらなくなった。

雅子ママは優しく笑った。

『私も寂しいわ。十年だものね』

その言葉だけで十分だった。

十年間の思い出が胸いっぱいによみがえった。

『そういえば、一日だけ休んだことがあったわね』

雅子ママは懐かしそうに笑った。

『車にはねられて救急車で運ばれたのに、その日のうちに店へ来たでしょう。あの時はさすがに帰りなさいって言ったわね』

私も思わず笑ってしまった。

そんなこともあった。

あの頃は毎日が必死だった。

『雅子ママと出会わなかったら、私は銀座にいませんでした』

私は深く頭を下げた。

『ここまで来られたのは、全部ママのおかげです。本当にありがとうございました』

雅子ママは静かに首を振った。

『いいえ。ここまで頑張ったのは美月ちゃん自身よ』

その言葉が胸に染みた。

私は少し間を置いて言った。

『お願いがあるんです』

『なあに?』

『店の名前を決めました』

雅子ママは微笑んだ。

『聞かせて』

『「クラブ 結」にしたいと思っています』

『結……』

雅子ママは、その名前をゆっくり口にした。

『私は一人でここまで来たわけではありません』

そう言って私は続けた。

『雅子ママとのご縁、お客様とのご縁、仲間とのご縁。

振り返れば、私の人生は人との結びつきに支えられてきました。

だから、その感謝を忘れないように、「結」という名前にしたいんです』

雅子ママは嬉しそうにうなずいた。

『いい名前ね。覚えやすいし、とても美月ちゃんらしいわ』

私は勇気を出してもう一つお願いした。

『それで……お店のロゴを書いてほしいのですが、、、』

『私が?』

雅子ママは少し驚いた表情を見せた。

『はい。私はママの字が大好きなんです。

看板を見るたびに、初心を思い出せる気がするので』

雅子ママは照れくさそうに笑った。

『私の字でいいのなら喜んで書くわ』

『ありがとうございます』

美月は心から嬉しかった。

すると雅子ママが思い出したように言った。

『そうだわ。開店まで時間を作って事務所へいらっしゃい』

『事務所ですか?』

『請求書の書き方も、お客様の管理も、売上のまとめ方も、全部覚えなくちゃいけないでしょう。ママになるって、接客だけじゃないのよ』

『ぜひお願いします』

『忙しくなるわよ』

『はい』

そう答えた時、不思議と不安より楽しみのほうが少しだけ大きくなっていた。

実は、雅子ママにロゴをお願いしたのには、もう一つ理由があった。

雅子ママの文字は、多くのお客様が見慣れた文字だった。

その文字が店の看板になれば、お客様に安心していただける。

美月はそんなことまで考えるようになっていた。

いつの間にか、美月の頭はホステスではなく、一人の経営者として動き始めていたのである。

こうして「クラブ 結」は、多くの人とのご縁と想いを受け継ぎながら、静かに産声を上げようとしていた。

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