『もしもし、雅子ママですか。今、お時間よろしいでしょうか』
『もちろんよ。どうしたの?』
『探していた店舗の候補が見つかったんです。
ぜひ雅子ママにも見ていただきたくて』
『あら、そうなの』
受話器の向こうで雅子ママの声が少し弾んだ。
『善は急げよ。いい物件はすぐ決まってしまうから。
今日の夕方なら時間が取れるわ』
『ありがとうございます。それでは六時にアーバンホテル一階の喫茶店でお願いします』
『分かったわ。また後でね』
約束の時間、私は図面を雅子ママの前に広げた。
雅子ママは真剣な表情で見つめ、しばらく黙っていた。
そして顔を上げると、はっきりと言った。
『ここ、いいじゃない』
その一言で、張りつめていた心が少し軽くなった。
『この店にしなさい』
雅子ママは図面を指差しながら続けた。
『入口を開けると、すぐカウンターが見えるでしょう。だから第一印象が大事なの。カウンターの中には若い女の子を立たせて、お客様を明るく迎えるのよ』
私は夢中でメモを取った。
『美月ちゃんは外でお客様をお迎えするの。少し狭いけれど、その分、お店全体に目が届く。私はこのくらいの広さがちょうどいいと思うわ』
雅子ママの言葉を聞いているうちに、その店で働く自分の姿が少しずつ見えてきた。
けれど、一つだけどうしても口にしなければならないことがあった。
『雅子ママ……お願いがあるんです』
『どうしたの?』
『やっぱり私の預金では足りないんです。譲渡金だけでも想像以上で、運転資金まで考えると、とても……』
私は最後まで言えなかった。
雅子ママは穏やかに微笑んだ。
『あら、その話、まだしてなかったかしら』
美月は顔を上げた。
『実はね、私も新しく会員制サロンを開く準備をしていて、銀行へ融資を申し込んでいるの』
『はい』
『その時に、美月ちゃんに必要な資金も一緒に借りられるよう話を進めてあるのよ』
私は耳を疑った。
『だから独立を勧めたの』
雅子ママは静かに続けた。
『本当は新しいサロンを任せることも考えた。でも、それでは美月ちゃんの人生にならないでしょう。私は、あなたには自分のお店を持ってほしいと思ったの』
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
私はずっと勘違いをしていた。
店を辞めてほしいと言われたのだと思っていた。
違った。
雅子ママは、自分のお金と信用を懸けて、私の未来を信じてくれていたのだ。
言葉が出なかった。
ただ胸の奥から、込み上げてくるものを必死にこらえた。
『ありがとうございます……』
その一言を口にするのが精一杯だった。
雅子ママは何も言わず、優しく微笑んでいた。
その笑顔を見た時、私は心の中で静かに誓った。
この人の期待だけは、絶対に裏切らない。
独立への道が、ようやく目の前に開けた。
けれど、それはゴールではなかった。
本当の試練は、ここから始まるのだった。