【連載小説】第88話 運命の店

【連載小説】第88話 運命の店

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『もしもし……』

まだ眠気の残る朝だった。

電話のベルに起こされ、ぼんやりと受話器を取る。

『もしもし、金子です。朝早くに失礼します』

聞き慣れた声だった。

『どうされましたか?』

『実は、美月さんにぜひ見ていただきたい物件が出たんです』

その一言で、一気に眠気が吹き飛んだ。

『条件にぴったりの物件です。こういう物件は滅多に出ません。できれば今日中に見ていただきたいんです』

『今から伺います』

『お待ちしています』

電話を切ると、私は慌てて支度を始めた。

冷静な金子さんが、ここまで急いで連絡をくださることは珍しい。

それだけ特別な物件なのだろう。

胸が高鳴った。

銀座へ向かう足も自然と速くなる。

『お待たせしました』

息を切らせながら不動産屋へ入ると、金子さんは笑顔で迎えてくれた。

『今回は自信がありますよ』

そう言って、一枚の図面を私の前へ広げた。

場所は銀座八丁目、金春通り。

三階、約十二坪。

営業中の店舗なので、中も見学できるという。

図面を見ただけでは分からない。

でも、なぜか胸が騒いだ。

『ぜひ見せてください』

金子さんは満足そうにうなずいた。

『それでは行きましょう』

ほどなくして、私たちはそのビルへ向かった。

九階建てのビルの三階。

案内された店のドアが静かに開いた。

『どうぞ』

中へ足を踏み入れた、その瞬間だった。

(ここだ……)

理由は説明できなかった。

ただ、不思議なくらい自然にそう思った。

初めて会った場所なのに、ずっと前から知っていたような安心感があった。

店内をゆっくり見渡す。

美月には、店づくりで一つだけ譲れないこだわりがあった。

ローカウンターであること。

カウンターの中に立つ人と、お客様の目線が自然に合うこと。

そしてボックス席のお客様とも、違和感なく会話ができること。

その距離感が、お店の居心地を決めると私は思っていた。

この店は、その条件をすべて満たしていた。

入口も店内も段差がなく歩きやすい。

十二坪という広さなのに、驚くほど無駄なく席が配置されている。

少し手を入れるだけで、そのまま営業できそうだった。

美月は店の中をゆっくり歩いた。

カウンターに手を添え、客席を眺める。

頭の中には、営業している光景が自然と浮かんでいた。

お客様が笑い、女の子たちが楽しそうに会話をしている。

カウンターの中には、美月が立っていた。

そんな情景が、まるで本当に見えているようだった。

金子さんが静かに聞いた。

『いかがですか?』

美月は迷わず答えた。

『好きです。このお店』

それは理屈ではなかった。

条件が良かったからでもない。

便利な場所だからでもない。

この店には、人を温かく迎え入れる空気があった。

美月は、その空気に心を奪われていた。

店を出ても、美月の気持ちはまだ店の中に残ったままだった。

『金子さん』

『はい』

『このお店なら、お客様に心からくつろいでいただける気がします』

金子さんは優しく笑った。

『美月さんなら、そう言うと思っていました』

美月はもう、この店以外は考えられなくなっていた。

けれど、運命の店と出会えたからといって、すべてが決まるわけではない。

一番大きな問題が、まだ残っていた。

資金だった。

その高い壁を、美月はまだ越えられずにいた。

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