『もしもし……』
まだ眠気の残る朝だった。
電話のベルに起こされ、ぼんやりと受話器を取る。
『もしもし、金子です。朝早くに失礼します』
聞き慣れた声だった。
『どうされましたか?』
『実は、美月さんにぜひ見ていただきたい物件が出たんです』
その一言で、一気に眠気が吹き飛んだ。
『条件にぴったりの物件です。こういう物件は滅多に出ません。できれば今日中に見ていただきたいんです』
『今から伺います』
『お待ちしています』
電話を切ると、私は慌てて支度を始めた。
冷静な金子さんが、ここまで急いで連絡をくださることは珍しい。
それだけ特別な物件なのだろう。
胸が高鳴った。
銀座へ向かう足も自然と速くなる。
『お待たせしました』
息を切らせながら不動産屋へ入ると、金子さんは笑顔で迎えてくれた。
『今回は自信がありますよ』
そう言って、一枚の図面を私の前へ広げた。
場所は銀座八丁目、金春通り。
三階、約十二坪。
営業中の店舗なので、中も見学できるという。
図面を見ただけでは分からない。
でも、なぜか胸が騒いだ。
『ぜひ見せてください』
金子さんは満足そうにうなずいた。
『それでは行きましょう』
ほどなくして、私たちはそのビルへ向かった。
九階建てのビルの三階。
案内された店のドアが静かに開いた。
『どうぞ』
中へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
(ここだ……)
理由は説明できなかった。
ただ、不思議なくらい自然にそう思った。
初めて会った場所なのに、ずっと前から知っていたような安心感があった。
店内をゆっくり見渡す。
美月には、店づくりで一つだけ譲れないこだわりがあった。
ローカウンターであること。
カウンターの中に立つ人と、お客様の目線が自然に合うこと。
そしてボックス席のお客様とも、違和感なく会話ができること。
その距離感が、お店の居心地を決めると私は思っていた。
この店は、その条件をすべて満たしていた。
入口も店内も段差がなく歩きやすい。
十二坪という広さなのに、驚くほど無駄なく席が配置されている。
少し手を入れるだけで、そのまま営業できそうだった。
美月は店の中をゆっくり歩いた。
カウンターに手を添え、客席を眺める。
頭の中には、営業している光景が自然と浮かんでいた。
お客様が笑い、女の子たちが楽しそうに会話をしている。
カウンターの中には、美月が立っていた。
そんな情景が、まるで本当に見えているようだった。
金子さんが静かに聞いた。
『いかがですか?』
美月は迷わず答えた。
『好きです。このお店』
それは理屈ではなかった。
条件が良かったからでもない。
便利な場所だからでもない。
この店には、人を温かく迎え入れる空気があった。
美月は、その空気に心を奪われていた。
店を出ても、美月の気持ちはまだ店の中に残ったままだった。
『金子さん』
『はい』
『このお店なら、お客様に心からくつろいでいただける気がします』
金子さんは優しく笑った。
『美月さんなら、そう言うと思っていました』
美月はもう、この店以外は考えられなくなっていた。
けれど、運命の店と出会えたからといって、すべてが決まるわけではない。
一番大きな問題が、まだ残っていた。
資金だった。
その高い壁を、美月はまだ越えられずにいた。