銀座には不思議な力がある。
ひとりの女性が夢を追い続け、
やがて自分の店を持つ。
それは誰もができることではない。
だからこそ、その夜は特別だった。
『クラブ・ヴィーナス』オープン初日。
私は今まで生きてきた中で、
あれほど多くのお客様を見たことがなかった。
開店前から店の前には祝いの花が並び、
階段を埋め尽くし、
一階の入口から道路まで続いていた。
ビルのオーナーですら、
『最近ではこんな光景は見ないよ』
と驚いていたほどだった。
店内では次々と胡蝶蘭が運び込まれ、
ご祝儀袋が手渡され、
高価なシャンパンがまるでビールのように注文されていく。
その様子を見ながら私は改めて思った。
雅子ママは本当にすごい人なのだと。
『ヴィーナス』は銀座八丁目並木通り。
誰もが憧れる一等地だった。
白と金を基調とした店内は上品で華やかで、
正面には天井まで届く大きな生花が飾られていた。
女性は三十人近く。
全員が着物姿。
黒服たちも黒いスーツで身を固め、
店全体が祝祭の空気に包まれていた。
そんな中でも雅子ママは少しも浮かれていなかった。
『佐藤様、ありがとうございます』
『ママの夢が叶ったな』
そう言われると雅子ママは静かに微笑んだ。
『いえ、まだ途中ですわ』
『途中?』
『この店を持つことは夢でした。でも私の夢はまだ先にありますの』
その言葉に佐藤さんは声を上げて笑った。
『さすがだな。普通はここで満足するものだ』
『満足したら終わってしまいますもの』
雅子ママはそう言ってグラスを持ち上げた。
私はその横顔を見ながら思った。
この人はどこまで行こうとしているのだろう。
私には想像もつかなかった。
その夜の店内は戦場だった。
栞さんも私も席から席へ走り回り、
気が付けば何時間経ったのかも分からない。
『美月ちゃんも来たのか』
『はい、よろしくお願いします』
『ママのこと頼むな』
そう声を掛けてくれたのは田中さんだった。
予備校を経営する有名な実業家で、
雅子ママの古いお客様でもある。
派手な女性遊びをするわけでもなく、
誰か一人を囲うわけでもない。
いつも大勢の仲間を連れて来店し、
気前よく飲んで、
最後は六本木あたりで朝まで騒ぐ。
銀座には珍しいタイプのお客様だった。
文句を言わない。
お金払いもいい。
そして女性に執着しない。
だから皆から好かれていた。
誰もが羨むような家庭もあった。
渋谷の松濤の豪邸。
美しい奥様。
息子さんと娘さん。
順風満帆な人生。
誰の目にも幸せそうに映っていた。
けれど人の心は外から見えない。
どれだけ恵まれていても、
ふと立ち止まり、
『このままでいいのだろうか』
と考えてしまうことがある。
田中さんもまた、
そんなひとりだったのかもしれない。
そしてその頃、
彼の人生にはひとりの女性が現れていた。
和服の似合う女性。
駒子という名の、
色白で穏やかな瞳をした女性だった。
その時の私はまだ知らない。
この出会いが、
田中さんにとって不幸をもたらすことになるとは。。。
祝福に包まれた夜の始まりだった。