狭間さんがお店で暴れた翌日だった。
雅子ママは嫌な予感が消えなかった。
そして店長を連れて狭間さんの事務所へ向かった。
『私が三十分経っても出てこなかったら警察に電話して』
そう言い残し、雅子ママは一人でビルの中へ入っていった。
店長は時計を何度も見ながら待った。
十分。
二十分。
そして約束の三十分が過ぎようとした時だった。
雅子ママがようやく姿を現した。
その顔は僅かに青ざめていた。
『雅子ママ、大丈夫ですか?』
『ええ、大丈夫』
『売掛金は?』
『渋々だったけど全額払ってもらったわ』
そう言って雅子ママは小さく笑った。
店長は胸を撫で下ろした。
同時に思った。
この人はやはり普通ではない。
銀座で生き抜いてきた強さを持っているのだと。
そして数日後。
昼のニュースを見ていた美月は思わず声を失った。
狭間さんが映っていたのだ。
詐欺集団の主犯格として逮捕されたという報道だった。
雅子ママが事務所へ乗り込んだのは逮捕直前。
一歩間違えばどうなっていたか分からない。
銀座とは時として薄い氷の上を歩くような世界だった。
華やかな光の裏には、
誰にも見えない危険が潜んでいる。
そんなことを改めて感じた出来事だった。
それからしばらく経ったある日。
『美月ちゃん、ちょっと話があるの。今から寿司雅まで来てくれないかしら』
突然の電話だった。
美月は慌てて支度をして寿司雅へ向かった。
雅子ママはすでに席に着いていた。
『何でも好きなもの食べてね』
『はい。いただきます』
美月は緊張していた。
雅子ママと二人きりになると今でも背筋が伸びてしまう。
しばらくして雅子ママが箸を置いた。
『実はね、美月ちゃんに聞きたいことがあるの』
『はい』
『まだ誰にも話していないことなんだけど』
その言葉に美月は自然と姿勢を正した。
『近いうちに自分のお店を出そうと思っているの』
『本当ですか!おめでとうございます!』
思わず大きな声が出た。
雅子ママは微笑んだ。
『それでね』
そして一呼吸置いて言った。
『美月ちゃん、一緒に来ない?』
美月は一瞬言葉を失った。
雅子ママを頼って銀座へ来た。
右も左も分からない自分を育ててくれた人だった。
その人から必要だと言われた。
それだけで胸がいっぱいになった。
『もちろんです』
美月は即座に答えた。
『私は雅子ママを頼って銀座へ来ました。どこまでも一緒に行きたいです』
雅子ママは嬉しそうに頷いた。
『ありがとう。でもこの話はまだ内緒よ。こういうことはタイミングが大事だから』
『はい。分かりました』
『じゃあ今日はそれだけ』
『えっ、それだけですか?』
『それだけよ』
二人は思わず笑った。
『また詳しいことが決まったら連絡するわね』
『はい。楽しみにしています』
寿司雅で過ごした時間はほんの十分ほどだった。
長い人生から見れば、
あまりにも短い時間だった。
けれど人生とは不思議なものだ。
何年も続く出来事より、
たった十分の会話で未来が決まることがある。
その時の美月は、
新しいお店への期待しかなかった。
その十分が、
この先の人生を大きく変える運命の十分間になるとは、
まだ知る由もなかった。