心の傷を癒やす薬があるとしたら、
それは新しい恋ではなく、
時間なのかもしれない。
高坂との別れから一ヶ月。
美月の胸の痛みは消えてはいなかったが、
少しずつ銀座での生活に追われるようになっていた。
最初は透明人間だった。
誰からも気づかれず、
誰にも名前を呼ばれなかった。
けれど今では少しずつ先輩たちも声を掛けてくれる。
お客様も笑ってくれる。
ようやく銀座の空気を吸えるようになっていた。
その頃の銀座には独特の文化があった。
ミンクのロングコート。
シャネルのバッグ。
ロレックスの腕時計。
そして麻布の住所。
それらは単なる贅沢品ではない。
銀座で生きる女性たちの名刺のようなものだった。
美月には最初、その意味が理解できなかった。
だが毎日のように
「どこに住んでいるの?」
と聞かれるうちに気づいた。
銀座では住まいもまた評価の対象なのだと。
ようやく麻布へ引っ越した時、
美月は少しだけ銀座の仲間入りができた気がした。
そして迎えた新年。
新調した着物に袖を通し、
少し誇らしい気持ちで店へ向かった。
だが、その高揚感は一瞬で消えた。
店内の空気が異様に張り詰めていた。
理由はすぐに分かった。
オーナーの環ママが来ていたのだ。
銀座でも伝説と呼ばれる存在。
中国で日本料理店を成功させ、
誰もが一目置く女性だった。
全員が席についた瞬間、
環ママは鋭い視線で店内を見回した。
そして静かに口を開いた。
その声は店中に響き渡った。
『私は今日、こんながっかりしたことはありません』
誰も顔を上げられない。
『中国では日本人ではない女の子たちが必死に着物を覚えているのよ。
それなのにあなた達はどうなの?』
空気が凍った。
『新年だというのに地味な着物ばかり。
日本髪の人間もいない。
銀座の女としての誇りはどこへ行ったの!』
その声は雷のようだった。
誰も反論できない。
環ママが怒っていたのは着物ではなかった。
銀座で生きる覚悟。
銀座の女である誇り。
その甘さを見抜いていたのだ。
隣を見ると、
和美ちゃんが静かに涙を流していた。
優しくて家庭的な彼女には、
その言葉はあまりにも厳しかったのかもしれない。
だが美月は違った。
怖かった。
正直、逃げ出したかった。
それでも心のどこかで思った。
銀座とは、
ただ綺麗な着物を着て笑う場所ではない。
この街には、
この街だけの誇りがある。
そしてその誇りを背負える人だけが、
銀座の女になれるのだと。
その日、美月は初めて
銀座の本当の厳しさに触れた。