救急車のサイレンが遠ざかり、
社長宅には妙な静寂だけが残った。
まるで、何事もなかったかのように。
——けれど、何かが確実に壊れていた。
麗子ママの興奮は、まだ収まらなかった。
このままでは終われない。
そう言わんばかりに、低い声で口を開いた。
『説明して』
東の空が白み始めている。
夜が終わりかけているのに、
この家の中だけはまだ“夜”のままだった。
『……』
『いったい、あの女といつからなの』
『すまなかった。でき心だ』
その一言が、火に油を注いだ。
『うそ言わないで。
でき心で、あんな女がここまで来るわけないでしょ』
沈黙。
『あいつは……可哀想なやつなんだ』
『両親を事故で亡くして、ひとりで生きてる』
『だから何?』
その言葉には、容赦がなかった。
『それに妹もいるらしいが、行方が分からないらしい』
『……あなた、それ全部ただの言い訳よ』
麗子ママの目は、もう冷えていた。
『こんな時間だ。怜香も起きてくる』
『また後で話そう』
逃げるように、男は書斎へと消えていった。
『私、今日のことは許さないわ』
その言葉だけが、静かに残った。
翌朝。
『おはようございます』
いつも通りの声で店に入った美月は、
すぐに異様な空気に気づいた。
——何かあった。
『チーフ、おはようございます。何かあったんですか?』
『ああ……いや、別に』
明らかに“別に”ではなかった。
店のあちこちで、
小さな声が渦巻いている。
『昨日、ママの家で事件があったんだよ』
その一言で、空気が変わる。
語られるのは、夜の裏側。
愛人。
乗り込み。
流血。
どこか現実味のない話なのに、
妙に生々しい。
『そんなに好きだったのかな……』
美月はぽつりと呟いた。
『まあな。でもな——』
チーフは少しだけ笑って、こう言った。
『愛人にもな、心得ってもんがあるんだよ』
それはまるで、
この世界の“ルール”のようだった。
『まずな、男が帰る時に
「次いつ会える?」なんて聞かないこと』
『石鹸は無臭。香水もつけない』
『一番大事なのは——』
少し間を置いて、言った。
『結婚してほしい、とか
奥さんとどっちが大事、とか……
そういうことは絶対に言わない』
美月は思わず言った。
『それって、男に都合がいいだけじゃないですか』
チーフは肩をすくめる。
『まあな。でもな……』
少しだけ、真顔になった。
『それが“女の業”ってやつだ』
美月は、その言葉の意味を
まだ理解できなかった。
ただ——
この世界には、
知らないルールがあるのだと知った。
そしてその日から、
麗子ママはしばらく店に姿を見せなかった。