「自然と技術の関係」慶應義塾大学文学部自己推薦総合考査Ⅰ2026年

「自然と技術の関係」慶應義塾大学文学部自己推薦総合考査Ⅰ2026年

記事
学び

(1)問題



① 「世界についての知識」とはいったい何だろうか。何も哲学的に深遠なことを言っているわけではない。たとえば目の前にある何でもない対象、テーブルの上に置かれているコップについての知識を得るといった場合を考えてみればいい。人間ならコップが何であるかなんて、まだ言葉を完全に話せない子供でも知っているし、そもそもコップとは何かなんてふつうは考えたりすることもない。けれども機械にとってはこれが難題なのである。というのも機械にある対象をコップとして認識させるためには、まずその材質、大きさ、形等々を網羅的に定義することで、コップをコップ以外の対象から区別できるようにしてやらなければならない。コップは何をするものなのか。それは何らかの液体を飲むための道具だが、どんな液体ならコップに注いでいいのか、「飲む」とは人間にとってどんな意味を持つ行為なのか、さらにコップは飲む以外にも、手品の道具に使われたり、庭に咲いていた花を活けるために使われるかもしれない、等々。人間にとって意識もしないほど簡単にみえる判断や行為が、機械にとっては無限に近い計算を必要とする。ほんの簡単な課題を達成するために、世界に起こりうる出来事の無限の分岐に対処しなければならない––これが「フレーム問題」と呼ばれる難問である。

② それでは人間や他の生物は、こんなに無限の分岐に満ちた世界の中で、どうやって様々な目的を達成できているのか。つまり生きた存在は、どうやって「フレーム問題」を解決しているのだろうか? これはきわめて興味深い問題であるが、それはこの問いがいわば逆立ちした問いだからである。つまりそれは、生きた存在を機械と見立てた時にのみ生まれてくる問いだからである。実際には人間も他の生物も、フレーム問題を「解決」したりなどしていない。なぜなら、初めから環境に埋め込まれた身体を持つ生物にとっては、フレーム問題なんてそもそも存在しないからである。存在しない問題を解決する必要はない。けれども生物を機械を通して考えることで初めて、それでは生きた知能とは何かを新たな観点から見ることができるという点で、人工知能という観点はきわめて重要なのである。

③ このように、世界についての知識を実装させることができないという困難から、人間と同じように思考する汎用人工知能の研究は大きな壁にぶち当たって一時停滞したのだが、一九七〇年代に入ると再び一種のブームが到来した。それは「汎用」ということをあきらめて、人工知能の知識を何らかの専門的領域に限定すれば、ある程度の成功をおさめることが明らかになってきたからだ。つまり、ふつうの人間と同じような知能を目指すのではなくて、専門家の推論や判断を機械によって実現するという目標に方向を変えたのだ。「エキスパート·システム」と呼ばれる研究であり、一九八〇年代になると実用化も行なわれた。これも考えてみると面白いことである。私たちにとって「ふつうの人」であることは別に難しいことではなく、大学で学んだり職業的な訓練を受けたりして高度な「専門家」として振る舞えるようになることは、年月や努力を要する困難な目標である。

④ けれども機械にとっては逆であって、専門家になることは比較的簡単で、むしろ「ふつうの人」と同じように考えることがきわめて難しいのである。ただ、このエキスパート·システムもその後順調に発展していったわけではなく、やはり壁にぶつかってしまった。それは、AIはそれが必要とする専門的な知識を自律的に学習することができず、すべて人間が与えてやらなければならないからである。その知識が膨大で複雑なものであるほど、それをコンピュータに学習させることは、現実問題として限界があることが分かった。

⑤ こうした、記号の論理的処理に基づいた探索と推論という方向性と並行して、それとはまったく異なった研究も進行していた。それは神経回路網(ニューラルネットワーク)に関する研究開発である。現代の生成AIからすると、どちらかというとこれの方がより密接に繋がる研究の流れなのであるが、面白いことにニューラルネットワークは当時「人工知能」という名前では呼ばれていなかったのである。荒っぽい言い方ではあるが、これら二つの研究の流れ–––ニューロ系と記号論理系–––が二〇〇〇年代以降に統合され、インターネットの発達によるデータ量の爆発的な増大と、コンピュータの処理速度の飛躍的な向上という条件下で可能になったのが、現代の私たちが「人工知能」と呼んでいるものである。だが「人工知能」という呼び名は、明らかに記号論理系の研究に由来するものだ。つまり、元々は探索と記号の論理処理に基づく自律的な知性の現という目標を示すための比喩であった「人工知能」という語が、今ではすべてを覆ってしまったというような状況なのである。

⑥ さて、これまで「人工知能」という概念のうち、どちらかというと「知能」という部分に焦点を当てて考えてきた。すでに述べたように、そもそも知能とは何であるのか? という問題に対して、誰もが同意する決定的な答えがあるわけではない。とはいうものの、二〇世紀において支配的だった「知能」のイメージは、人間や他の生物が生きてゆく上で遭遇する様々な問題を解決するための情報処理能力のようなものをおよそ意味していた、ということは言えるだろう。そしてその能力は、神経系のような身体内部の特定の器官の作動として現れてくると考えられていた。そうした知能とはいわば、外界から基本的に独立した、頭蓋に守られた脳のようなものに帰属する何かとしてイメージされてきたわけである。その脳が周囲の世界についての知識を持ち、入力されたデータから計算を行なって反応を返す。

⑦ そして知識が豊富で計算能力が優れているほど、知能は高いということになる。ふつうに「知能」と呼ばれているのは、まあそんなところではないだろうか。「IO(知能指数)」という(私から見ると)きわめて怪しげな、にもかかわらず影響力を持つ数値評価があるが、これもそうした知能イメージに従った概念である。

⑧ 知能についてのこうした「古典的」な考えに従って、これまで人工知能もイメージされてきた。そこでは知能とはコンピュータのような機械とか、あるいはそれを内蔵したロボットの「中に」あるものとして想定されている。頭蓋の中に脳があるように、マシンの筐体(きょうたい)の中に電子的頭脳があるのだから、その二つが互いに競合するというイメージも抱きやすかった。知能についてのこうした理解が、依然として私たち現代人にも影響を及ぼしていると思われる。それは私たちが、頭がいいことを脳のパフォーマンスが優れていることと同一視したり、誰それがIQが高いとか低いとか言って騒いでいることから明らかである。本書では後に、こうした「古い」知能イメージが、生成AIが存在する現代においてはもはや決定的に無効となったことを示すつもりである。しかしここでは「知能」についての議論はしばらくおいて、その前に付いている「人工」という言葉について少し考えてみたい。人工(アーティフィシャル)とはそもそもどういう意味なのかという問題である。人工とは人間が作った、自然にできたのではないという意味で、そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれない。しかし注意深く考えてみると、人工とは何を意味するのかはまったく自明ではないのである。それを根本から考えるためには、「アーティフィシャル」という語の根幹をなしている技術とは何なのかを知る必要がある。そしてアートが対立している(ようにみえる)「自然」とは何なのか、ということも考えてみなければならない。

⑨ 何かが「人工的」であるとは、それが人間の技術の所産であるという意味である。だがそもそも技術とは、もっぱら人間だけに限られるものなのだろうか? 自然の技術というようなものは考えられないのだろうか?

⑩ 自然、とりわけ生物の世界は、人間のテクノロジーなどいまだ遠く及ばないような、多様で精妙な形態や活動を実現しているではないか。自然にはたんに物理法則しかなくて、そこに高度な技術があるように思えるのは幻覚なのだろうか?

⑪ 人工知能をめぐる哲学的思考は、潜在的にはこうした大きな問いに触れているのであるが、二一世紀の知的環境においては、そもそもこうした問いを適切に問うことが困難なのである。こうしたことを考えるためには、一見回り道のようにみえるかもしれないが時代を二〇〇年余り遡って、一八世紀末から一九世紀初頭の哲学、なかでもカントの『判断力批判』を振り返ってみることが、実際上はいちばん近道ではないかと私は考えるのである。そこで本章では最後に、AIについて考えるためにカントの技術論を紹介してみたいと思う。

⑫ 「アート」という言葉は今日の日本語では、ファイン·アートつまり芸術を現代的な仕方で言い表す外来語として使用されることがほとんどである。けれどもここではそうした一般的な意味を少し離れて、アートという英語に本来含まれている歴史的な意味に戻って考えてみたい。アートという英語はラテン語の「アルス」に由来し、本来は技術や技芸、作法や物事のやり方といったきわめて広い意味を持つ概念である。アートは人為、つまり人間によってなされることではあるが、かならずしも自然と単純に対立しているわけではない。この点を理解することが重要である。アートから作られる英語の形容詞に、「アーティフィシャル」と「アーティスティック」がある。「アーティフィシャル」には、自然にできたのではなく人間が作ったという単純な意味もあり、「AI」における「アーティフィシャル」とはそうした中立的な意味である。一方日常会話において「アーティフィシャル」という形容詞が使われると、中立的な意味の他にしばしば「ツクリモノの」「わざとらしい」といった意味を持ち、どちらかというとあまり好ましいニュアンスの言葉とは言えない。それに対して「アーティスティック」の方は「絵ごころがある」とか「芸術的な」「技の冴えた」おもむき「趣のある」など、概ねポジティブな意味で用いられることが多い。両方とも同じ技術という語を元にした言葉でありながら、この違いはいったいどこから生じるのだろうか?

⑬ 美学の古典的文献とされるイマヌエル·カントの『判断力批判』という本では、この技術という概念が、学問的知識や「自然」との関係において、広い哲学的な視野において議論され、規定されている。もっとも原文はドイツ語で書かれているので、アートではなく「クンスト(Kunst)」という語なのであるが、今はあんまりこだわらないことにする。本書では哲学史の解説をすることが目的ではないので、技術についてのカントの考察の中から、私たちがAIについて哲学的に考えるために重要と思われる部分だけを、いくぶん単純化してしまうことを覚悟で抜き出しながら紹介してみよう。

⑭ 技術は、「自然」から区別される。それは、「行為」が「作用」とは異なり、「作品(行為の産物)」がたんなる作用の結果とは異なるということだと、カントは述べる。この箇所を読む上でまず注意すべきことは、「自然」という言葉の持つ含意である。というのも「自然」という概念の意味は過去二世紀という時間の間に大きく変わっており、この変化がしばしば西洋の古典的な哲学テキストを読む時に邪魔になるからである。私たち現代人にとって、「自然」は過剰に美化されている。自然は現代人にとって好ましいもの、だが弱いもの、文明化の脅威に晒され、破壊から護るべき貴重なリソース、といった含意を持っている。「母なる自然」、帰るべき故郷といったイメージも持っている。だが自然のそうした意味は主としてカントの時代に続く一九世紀、ロマン主義以降の文化の中で作られたものである。

⑮ それは同時に、産業革命が急速に進行し、人間生活が人工物に取り囲まれる環境へ変貌してゆく時代でもあった。現代の私たちの文化も依然としてその影響下にある。

⑯ しかしカントにとって自然とは、そうしたロマンチックな憧れの対象ではない。自然とはむしろ、物理法則に従ってひたすら作動する、巨大なメカニズムなのである。物理法則は、私たちが経験する世界の全体に及んでいるから、文明に対立する自然ばかりではなく、文明や人工物自体も、カント的な意味ではすべて自然の支配下にある。言い換えればそこには、現代の私たちが常識としているような、自然と人工との対立というものはない。それを踏まえた上で、もしもカントが「人工知能」を知ったらどう考えるだろうかと想像してみるのは面白いだろう。現代人は「機械が心を持つか」といった問いに惹きつけられるが、おそらくカントにとってこの問いはまったく意味を持たないのではないか。機械であるかぎりにおいて電子回路であろうが生きた神経細胞であろうが––心を持たないのは、定義上自明だからである。情報処理の複雑さがある閾値(いきち)を超えると自己意識や感情を持つようになるというような現代的空想は、一種のオカルトではないかとカントなら疑ったのではないだろうか。

⑰ もちろんカント哲学においても、自然と人為の間には区別がある。自然は意図を持たないが、人間の行為は意図や欲求を持つからである。ここで欲求というのは欲望や衝動といった狭い意味ではなく、「こうすべきだ」という道徳的な欲求をも含んだ広い意味である。そうした欲求を持ちうることが、人間が「自由」であるということの意味である。したがってカントにおいては、自然と人工の間に対立はなく、自然と自由との間にある。

⑱ この違いは、初めて耳にする人にとってはピンと来ないかもしれないが、AIについて哲学的に考える際にいちばん重要なポイントなので、何とか心に留めておいてほしいことである。現代の私たちにとっては、人工物としての機械が自然と対立する。けれどもカントにおいては自然が機械であって、自然物であれ人工物であれ機械的に動く世界が、意図や欲求によって動く自由の世界と対立しているのである。

⑲ 右でカント哲学の基本を紹介したのは、そこで考えられている技術とは何かということを正確に理解するためであった。自然と自由とは対立するけれども、自然と技術とは単純に対立しているわけではない。ではそれらはどんな関係にあるのだろうか? この、自然と技術との関係こそ、私たちがテクノロジーについて考察する際、AIとは私たちにとって何なのか、どのように向きあうべきかを考える上で、もっとも重要なことだと思うのである。そこで最後にそれを説明することで本章を終わりにしたい。

⑳ 一般に技術とは、何らかの目的を達成するための手段である。そしてその目的とは、技術それ自体の外にある。靴を作る技術は、それを履いて快適に歩くという目的のために行使されるが、この目的は靴を作る技術それ自体と必然的に結びついているわけではない。革を加工したりする同じ技術は、靴を作って履くというのとはまったく異なった目的のためにも使われるからである。そうした、外部にある特定の目的のために行使されるというのが、技術のふつうの理解だろう。けれどもカントは、そうではない技術も存在すると言う。それは、技術の目的が技術の外にあるのではなく、自分自身の中にあるような技術、いわば外の助けを借りずに自力で目的に適っているような技術である。そうした、技術がそれ自身の目的に適っているような技術のことを「美しい技術」、つまり「芸術」と呼ぶのである。

21 これもまた、現代人の多くにとっては、芸術についての異様な定義だと思われるかもしれない。だがここで本章の冒頭で引用した太宰治の作品の一節(注を思い出してほしい。鉄道の陸橋や地下鉄のような技術的産物を、主人公は幼い頃、何かの役に立つためではなくて、それがあること自体が楽しいから作られたのだと信じていた。それはつまりテクノロジーを「芸術」だと思っていたということなのである。

22 いよいよ核心に近づいてきた。技術一般は––それが外部に目的を持つという点において––自然と区別されるにもかかわらず、「美しい技術」つまり芸術は「同時に自然にみえる」ような技術であると、カントは述べているのである。もちろん芸術作品だって、それが人為的な制作過程によって生み出されたことを私たちは知っている。だが同時に私たちは芸術について、まるで作者は自由奔放に作っただけのようにみえる、などと言わないだろうか。そうした言い方の背後には、芸術において技術は機械的強制力として現れてはならず、あたかも自然の産物のように、作為なく勝手に出来上がったようにみえなければならないという認識がある。つまり技術と自然との間には、相互に照らし合う二重の関係が存在するように思えるのである。技術は、一方では特定の目的に沿ったものを制作するために機械的強制力を用いる活動なのだが、他方ではいわば自由な遊びとして、あたかも自然であるかのように現れることもある。技術はそうした二面性において考えられなければならないということである。

23 このことを先に触れた二つの英語形容詞に結びつけてみると、「アーティフィシャル」における技術とは自然との対立において理解された技術であり、それに対して「アーティスティック」における技術とは、技術でありながら作為が感じられない技術、「あたかも自然として」現れる技術として理解できる。大雑把な分け方をすれば、前者がテクノロジー、後者が芸術ということになるのだろうが、かならずしも現実の制度的な意味における、テクノロジーと芸術との違いに限定する必要はないだろう。テクノロジーにも常に自由な遊びという側面があり、また芸術にも意図や作為によってメカニカルに動いている側面はあるからである。その意味で、科学技術的な営みの中にも本質的なレベルでは芸術が含まれている部分があり、また反対に、常識的に芸術と呼ばれている活動の中にも、本質的には芸術と無関係な要素もたくさんある。AIが驚くべき技術的達成であることはその通りなのだけれども、私はそれを同時に遊びとして、あたかも自然の所産として、また芸術活動とじても見ているということである。
(吉岡洋『AIを美学する』より)
(注)この一節は、この文章の中には含まれていない。

設問I この文章を三〇〇字以上三六〇字以内で要約しなさい。

設問Ⅱ 自然と技術の関係について、この文章をふまえて、あなたの考えを三二〇字以上四〇〇字以内で述べなさい。

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(2)解答例


設問I

筆者は人工知能をカントの技術論から考察する。人工とは人間の技術の所産であるという意味である。技術は自然から区別される。自然は物理法則に従って作動する巨大なメカニズムである。文明に対立する自然だけでなく文明や人工物自体もすべて自然の支配下にある。自然が機械であり自然物や人工物など機械的に動く世界が意図や欲求によって動く自由の世界と対立している。技術はそれ自体の外にある目的を達成するための手段だが技術がそれ自身の目的に適っているような技術を芸術と呼び、これは同時に自由な遊びとして自然であるかのように現れる。芸術には意図や作為によってメカニカルに動いている側面はあるが、テクノロジーにも常に自由な遊びとして自然であるかのように現れることもある。このような理由でAIを遊びとして自然の所産としてまた芸術活動としても見ている。(360字)

設問Ⅱ
先端テクノロジーの所産である新幹線は最高速後285kmで東京・大阪間を最短約2時間21分で駆け抜ける。その車内は大きな揺れはなく、リラックスして時間を過ごすことができる。新幹線を代表とする交通運送技術は究極の速さ/早さと快適さを実現し、人間の利便性という目的を達成する手段として登場した。だんご鼻の初代ひかり号の車体から始まり、現在は6代目を数えるが、その流線形のフォルムは空気抵抗を抑えて、スピードを加速させるのに適した目的を持った手段つまり機能性のもとでデザインされている。しかし、こうしたテクノロジーであっても、ただ純粋に美的な鑑賞対象として新幹線の車体を眺め、あたかも遊びとして、自然の所産として愛でる人々もいる。技術が人為的なものであるから自然の造形物には劣る、という意見がかつてはあった。しかし、現代技術の粋を集めたプロダクトは自然に勝るとも劣らぬ美を私たちの前に現すことに私は驚きを禁じ得ない。(399字)

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