枯葉で埋め尽くされていた地面はどこへやら。
分厚い雪が辺り一面を覆い尽くし、畑はすっかり真っ白に染まってしまった。乱反射した日光のせいで目がクラクラするほどだ。
私の地元は滅多に雪が降らないため、最初にこの景色を見た時はとても興奮したものだ。
見た時は、ね。
実際に歩いてみると、まぁ辛いこと辛いこと。
足が埋まるほどの積雪ともなれば、脚を上げるだけで一苦労だ。何なら硬くなった雪に躓くこともあった。
当然足先は冷えるし、場合によっては足の感覚が無くなることもある。
しかもそれだけの積雪ともなれば、当然側溝は覆われて見えなくなってしまう。
分からず踏んでしまい、脚を挫いた先輩ハンターもいた。
まぁ、それはいいとしよう。慣れればいいだけのことだ。
問題は来る時。
私がバスで来ているわけだが、普通のバスの車輪で雪の上を走ったら滑って事故を起こすに決まってる。
かといって街はそこまで雪が降ってないため、出発の時点で対策をするわけのもいかない。
そこで雪が積もってきた場所辺りで停まり、スリップ防止のチェーンを装着するのだ。
仕方ないが、それが結構時間がかかるし、当然ダイヤ通りの運行は出来なくなる。
師匠達との待ち合わせに遅れることもよくあるので、どうしたものか。
要は何事も程々が良いということだ。
それはさておき。
その日、師匠と共に見回りをしていた私は、とある畑にやってきた。
そこは、町の色んな人達が思い思いに作物を育てる共有スペースらしく、市が管理してるとか。
私達は畑の空いたスペースに檻を、畑から急な坂を降りた水路の通ってる川の近くにくくり罠を設置していた。
檻の方はかかっておらず、半ば諦めつつもくくり罠を確認する。
わざわざ坂を降りなくても、上から様子は見ることができるため、グッと首を伸ばして確認する。
特に姿は見えず、やはり不発かとため息をついた、その瞬間。
罠のアンカーにしていた大木から、大きなメス鹿が姿を表した。
横着したせいで見えにくかっただけで、しっかりと罠にかかっていたのだ。
歳は3、4歳くらいだろうか。鹿からすれば充分大人と言える年齢で、後々で分かったことだが、実際に子供を孕っていた。
私達に気がつき、大鹿と呼んでいいレベルの巨体をピョンピョン跳ねさせて逃げようとする。
とりあえずこれ以上刺激させても鹿が辛いだけだし、肉も傷んでしまうので、一旦その場は離れた。
残りの罠の見回りも終わらせ、早々に止め刺しと解体の準備のため狩猟小屋に戻る。と言っても、道具を師匠の車に積み込むだけだが。
まずは止め刺しの前に、心臓を動かしたまま気絶させるための棍棒。いつもはこれを使うらしい。
しかし師匠からの提案で、私が購入した電気の槍を使ってみようという話になった。
バッテリーは充電されており、試運転もしてある。問題なく使えるだろう。
とりあえず念には念をということで、槍も棍棒も積み込んだ。
そして鹿を運ぶためのロープとソリとブルーシート。解体する場所まで運ぶのは師匠の車を使うのだが、車まで運ぶのに使うのだ。
大きな鹿を出来るだけ傷つけず、雪の中を運ぶにはソリが非常に便利なのだ。
さらに一応動物の遺体を運ぶわけだし、あまり周りから目立たぬように隠すため、そして師匠の車を血で汚さないためにブルーシートと縛るためのロープはあった方がいい。
すぐ車が入れる場所だったり、解体する場所の近くなら必要ないが、今回は場所的に無理なので全部必要だ。
後はホワイトボードとマジックペン、白いスプレー缶も積み込む。
これは鹿の駆除の報奨金を貰うために必要な物だ。
駆除した鹿の身体にスプレーで日付を書き、いつどこで誰が獲ったのかをホワイトボードに書いて写真を撮る。
これが駆除した証明写真になるわけだ。
必要な物は揃い、私達は再び畑に戻った。今度は坂も降りて鹿と対峙する。
さすがに目線の高さは私が上だし、オスじゃないから角もない。向こうは拘束されてるわけだし、状況はこちらが圧倒的に有利だ。
だがその余裕すらも飲み込む程の気迫に、私は息を呑んだ。
まぁ実際の話、こちらが完全に安全かと言われればそんなこともない。
角があろうがなかろうが、鹿には強靭な脚力がある。しかも今回罠が拘束しているのは前脚で、後ろ脚は自由だ。
おかげで突進の心配は無いものの、不用意に近づけば大怪我する可能性もある。
とはいえビビって固まっていても鹿を興奮させるだけなので、手早く止め刺しの準備にかかった。
グローブをゴム手袋に変えて、腰から提げたバッテリーを槍に繋ぎスイッチオン。槍先を鹿に向けた。
鹿は何とか逃げようと暴れ回っては、疲れて休むを繰り返す。私が狙うのは、その休んで大人しくなったタイミングだ。
その間、鹿は一瞬もこちらから目線を逸らすことはない。私も釣られて目を合わせ続ける。
鹿が疲れて伏せたその瞬間、向けた槍を前脚に突き立てた。
料理で肉を切る時と同じ感触を破り、7センチほどの槍が突き刺さる。
「グォ、キュォ──────ッ‼︎」
女性の叫び声を濁らせたような鳴き声が、辺りに響いた。
意外かもしれないが、どんな動物でも鳴いて威嚇するのかと言えば、そうでもない。
近づいても鳴かなかった鹿の声を、私はそこで初めて聞いた。
悶えて苦しむ鹿の身震いが、槍を通して伝わってくる。
しかしここでトラブルが発生。
槍の説明書には、10秒ほどで気絶すると書いてあった。
しかし鹿が大き過ぎるため、電気の効き目が薄くなってしまったのだ。弱ってはいるが、気絶はしていない。
電流を流している内は倒れるが、少しすれば起き上がってしまう。
出力を上げられればいけるんだろうが、生憎この槍ではそれが出来ない。
このまま続けても、苦しめるだけになってしまう。
念の為に持って来た棍棒を使うことにした。
槍は近くに置き棍棒に切り替えると、間合いを確認しつつゆっくりと近づく。
弱っているので逃げることはないが、反撃される可能性があるので細心の注意を払う。
鹿が体を起こしては引き、一歩ずつ距離を縮める。
不慣れなばかりに苦しめてごめんね。
心の中で呟くと、後頭部に棍棒を振り下ろした。コンッという硬い音がして、今度こそ倒れた。
厚めの布で包んだヘルメットを叩いたような感触。これが動物を殴る感触なのか。
鼻から血を流す鹿を見て、私は大きく息を吐いた。
初めてにしてはまずまず、と割り切ってしまっていいものかどうか。
間合いを図り、心臓を止めない程度の力加減をする。言う分には楽だが、素早く実践するには慣れが必要だ。
結果論にはなるが、ここまで大きな鹿となれば、初めて止め刺しをする私が、棍棒だけで仕留めようとするのは難しかったかもしれない。
時間がかかって、より苦しめていただろう。リーチが長くて力加減が必要ない槍だからこそ、最短で弱らせることが出来た。
ただ今回の通り、槍の出力には限界がある。経験を積んで臨機応変に対応出来るようにならなくては。
ともかく気絶は完了。
そのままここでトドメを、と言いたいところだが、そういうわけにもいかない。
というのも前述の通り、ここは水路の通っている川があるため、万が一にも川に血を流すわけにはいかないのだ。
気絶して時折震える鹿の脚を持ち、師匠と斜面を登っていく。
距離はほんの数メートルなのだが、そこそこ急な坂を数十キロもある鹿を持って登ることが、どれだけ大変か。
やっとの思いで引き上げて、いよいよ止め刺しだ。
買ったばかりの止め刺しナイフを取り出し、消毒(師匠にアルコールスプレーを借りた)をした。
刺す場所は、心臓の辺りにある大動脈。位置的には左前脚の腹側の付け根だ。
当然皮や肉を突き破るため、ビビって弱い力で刺すとトドメを刺せず、ただ鹿を苦しめるだけになってしまう。
やるならひと思いに。それが獲物に対して出来る、せめてもの気遣いだ。
鹿は刺す時に、最後の抵抗で後ろ脚を大きく蹴ることがあるらしい。
それだけは気をつけて左前脚を押さえると、突き立てたナイフを一気に差し込んだ。
「ギュゥ、クゥ………フーッ、フーッ!」
さっきよりも声は濁り、弱くなった断末魔が響く。
ナイフを引き抜くと、傷口から鮮血がゴプッと噴き出した。
手にかかった血は生温かくて、生き物を刺したことを自覚させられる。
しっかりと大動脈を刺せたようだ。
とはいえ、このままではしっかり放血が出来ないので、うつ伏せにさせて背中を押して血を流す。
ここでしっかり血を流すことが、美味しい肉にする秘訣だ。
その間も鹿はまだか細い呼吸を続けている。
やがて呼吸が止まり、鹿の目から光が消えた。
瞳孔が開いた鹿の目は、エメラルドブルーと言えばいいのだろうか。緑がかった青い色に変わった。
綺麗だなぁ。
そう思いながら、師匠と手を合わせる。今でも行っている、命に対する礼儀だ。
こうして私は、初めて自分の手で命をいただいた。