哲学とは?

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コラム
哲学しましょう!

と言ってはみましたが、注意点が一つ。
一応情報系エンタメとしての体裁でやりますが、結論は出ません!

こうこうこういう流れがあって、つまりはこういうことなんですね、という形にはなりません。
なぜなら歴史上、哲学を完成させた、あるいはやりきった人間などいないからです。

語弊を恐れずに言えば、過去の偉大な哲学者もそれは同じ。全員が仮説。
全員があやふやなまま語っている。なので、ここでは分からないということを認めたうえで、そのまま発信していこうと思います。
結論、答え、絶対の真理なんてものは誰にも分からないので、それを追う方法だけお話します。

カントという哲学界では有名な偉人の言葉を借りれば「人は哲学を学ぶことは出来ない。哲学することを学ぶのみである」ということですね。
じゃあ意味ねーじゃんと思われるかもしれませんが、道の先に何があるかは知らなくても歩き方は教えられるようなものだと思ってください。


さて、基本の基本から参りましょう。
ズバリ、哲学とは何なのか。わかりますか?

俺にはわかりません!

なので考えてみましょう。必死で定義してみましょう。
概念の最小構成単位、最大公約数を探ってみましょう。

・・・というのが哲学です。哲学によって哲学を定義する。
ふざけていますね。
こういうとこが高尚さを気取った言葉遊びだと揶揄(やゆ)されるところです。

もう少し分かりやすくお話しましょう。
詩的な言い回しをしたがるのは哲学者の習性なんですが、それで分かりづらくなったら意味ないですからね。

まず難しい言い方をすれば、
哲学とは「形而上(けいじじょう)領域に手を突っ込む営為」 つまり手の届かないものに本気で手を伸ばす営み。覚悟。
簡単に言えば「好奇心に付き合おうという態度」のことです。

「人生ってこういうもんだよね」って語りや、抽象的でわけのわからない理屈が哲学の全てではないんですよ。それらが哲学ではないとも言いませんけどね。

分かりやすい例を出せば、人は何故生まれ、何故死ぬのかという問いは哲学ですね。いかにもいかにもな哲学。
しかし、なぜ男は大きな胸が好きなのかというテーマも、展開のさせようによっては哲学なんです。
居酒屋のおっさんが言うような下ネタで済ませればそれまでですが、本気で考えてみると

・生物学的欲望(好きだから好きなんだ!)
・進化生物学における性淘汰の役割(孔雀の羽と同じなのでは?)
・文化的媒体(男女の描き分けに便利だった)
・身体の象徴性(女性らしさという記号)
・欲望と規律の関係(抑え込まれるほど求める心理)

といった具合に、認識論・倫理学・美学・社会哲学にまたがる、立派な問いに変貌します。

つまり、「何を問うか」ではなく、「どのように問うか」が哲学を哲学たらしめているんですね。
くだらなく見えること、考える余地なんてなさそうなことにも、一切の偏見なく「なぜ?」と問い直す態度こそが哲学・・・の、一つの定義です。

さあ、ややこしくなってきましたね。
哲学とはなんなのかって話で既にややこしいですが、まだなんとか付き合ってくれているだろうと自分に言い聞かせながら先に進みます。

そのように考える生き物である哲学者には三種の神器があります。
好奇心、論理、自己批判(懐疑主義)です。
好奇心と論理は分かりますよね。では自己批判とは何か。

まず「批判」という言葉について話しましょう。
結構多い誤解なんですが、否定と批判は異なるものです。
批判というのは検証です。それが正しいかどうかを論じること、判断することです。
別に悪く言ったり、「その意見はおかしい」と頭ごなしに否定するものではありません。

では改めて自己批判とは。
自分を信じるなということです。人間は愚かな生き物なので、基本的に自分は正しい、そう思いたい、そうであってほしいというバイアス(偏見・先入観)が働きます。

その一種に「確証バイアス」と言われるものもあります。
似たような意見を持つ者同士でかたまり、お互いに肯定し合うことで承認を得る。
そうすることで更に意見は先鋭化し、排他的になっていく。
現代ではあちらこちらで見られる構造です。

哲学者はそんな沼に落ちてはいけないんです。
そのためにするべきことが自己批判です。自問自答を止めてはいけない。
そういう愚かさが自分にもあることを認め、その上で思考する。
ここで勘違いしてはいけないのは、そういうバイアスを見下してもいけないということです。それはそれで偏っていますからね。

そのため哲学者とは、寄りかかれる価値基準を持たないことが多いです。
「これが自分なんだ!」という柱を持たない。

専門用語で言えばメタ認知の一形態でもあります。
『メタ』とは外側から見ること、観察することを意味する言葉です。
つまり自分自身すらも観察の対象にしてしまうんですね。

怒っても、悲しんでも、喜んでも。
また、何かに悩んでも、考えていても。
その全てを客観視し続けるんです。

そうしなければ公平には考えられない。
先ほどお話しした確証バイアスなどに飲み込まれてしまう。

そんなこと一々やってられるかって?
全く持ってその通り。
だから過去の偉大な哲学者の中には病んでしまう人もいたんですよ。

嘘か真か、ニーチェなんて泣きながら馬に抱きついたりしたって話もありますし、精神衰弱して亡くなっています。
もちろんそういう人は少数派ですよ。殆どの人は健全に生きていましたが、それも一定のラインを超えることはなかったという話で、日常レベルでは色々困っている人も多かったんです。

哲学者という存在の宿命とも言えるのが友人の不在です。
同じレベルで語り合える友に出会えることが少なかったんですね。
そういう意味では細かく見るとちょっとおかしい人も多かった。

これには理由があって、自己批判というものを突き詰めると、何もかもが信用ならなくなるんです。
デカルトという人は「我思う、故に我あり」と言いました。

どこまで疑っても『疑っている私』という意識は必ず存在する。
だから私は確かにここに存在している。

という考え方です。
このデカルトは何をするにも疑ってかかる人だったんですね。
だから「まずは私という存在が確かにここにあるのか?」
という疑問に立ち向かったわけです。

一見完璧な理論展開をしたように見えますが、これだって議論の余地がないわけではない。
例えば「自分を疑う」というプログラムを施されたAIなのでは?という問いには答えきれません。つまり、ある一点で思考停止することが前提の理論なわけです。

しかし哲学者は思考を止めない。止められない。
そうすると当たり前の大前提までも疑うようになるんです。

ここで一つ注意です。絶対に彼らの真似をしてはいけません。
生きづらくなります。あえて挑発的な言葉で言いますが、

「馬鹿でいることでしか得られない幸せがあります。哲学は絶対に幸福には繋がりません。絶対です。断言します。ドラッグと同じようなものです」

ニーチェが言った「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とはこれのことです。有名な言葉ですね。
これは、知れば戻れなくなるぞ、ただの観察者のままではいられなくなるぞ、という彼なりの警告でもあるわけですね。
哲学の道を進むのなら心せよ、ということです。
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