P31
『わたしが全能の神、天と地の王者として姿を現し、それを証拠だてるために山を動かしてみせたら、「悪魔にちがいない」と言う者がきっといるだろう。
それもそのはずだ。神は外からわかるかたちで、あるいは外界の現象を通じて出現するのではなく、そのひとの内的体験を通じて姿を現すのだから、内的体験を通じて現れるなら、外から見える姿は必要ない。外から見える姿が必要だというなら、内的体験は不可能だ。さらに、啓示が要求されるなら啓示は不可能である。求めるのは、そこにはないからであり、啓示をもとめるのは、神が見えないということだから。神が見えないと言えば、神は見えてこない。何かについて考えるというのは創造的な行為だし、言葉によっても創造が行われる。思考と言葉、この二つが合わされば、効果はますます大きくなり、現実が生まれる。したがって、啓示を求めると言えば、神が見えないという経験をするだろう。』
ここに非常に深い真実が書かれています。
神を求める時、普通は「外」にその存在を求めてしまいますう。
しかし、外に神を求める限り、神は見えない。
見えたとしてもそれは誰かの創り物なのです。
そうではなくいつも、自分の中に神を見出すことこそが、ほんとうに神を見るということです。
外に、どこかに見えるものという固定観念があると、自分の中に神を見出すということは考えもつかないでしょう。
そして中に見出すということを想像できなければ、中に見出すこと(創造する)もできないのです。
神を自分の中に見出すことを知らない、わからない、理解できないという固定観念が、そのような世界を創っているのです。(固定観念=思い=想い=想像=創造される)
だから、固定観念をすべて外してこの神との対話を読み進める必要があるのです。
自分の中に神を見出すことを「知っている。思い出した」とした時に、神を見ることができるのです。
ですので、その神は、神を視た人すべての人の数だけ違う姿になるのです。
同じ姿の神はありません。
ほんとうに難しい文面です。
私の解説を加えても「?」という方が多いことでしょう
なぜなら、言葉はもっとも非効率なコミュニケーション方法だからですね。
だから「感じて」下さい。
何かを感じたら、それはあたなの真実なのです。
(その真実も人の数だけあるのです。)