好きの未然形

好きの未然形

記事
コラム
翌朝。
凪は、少しだけ寝不足だった。

原因は分かっている。
昨夜、何度も自分に問いかけたからだ。

私は、誰が好きなの?
答えは出なかった。

というより、答えらしきものに近づくたび、
怖くなって離れた。

そんなことを繰り返しているうちに、
いつの間にか眠っていた。

教室に入る。

陽菜は、もう来ていた。

「おはよう、凪。」

いつもの笑顔。

「……おはよう。」

それだけなのに、
凪は、まともに顔を見られなかった。

鞄を机に置く。

筆箱を出す。

意味もなく教科書を整える。

「凪?」

「なに?」

「今日、眠そう。」

「ちょっと寝不足。」

「夜更かしした?」

「……まあ。」

本当のことは言えない。

あなたのことを考えて眠れなかった。

そんなこと、言えるはずがない。

「ちゃんと寝ないとダメだよ。」

陽菜が笑う。

また胸が鳴る。

(もう……。)

凪は教科書で顔を隠したくなった。

昨日までは、こんなじゃなかったのに。

二時間目は国語だった。

先生が黒板に大きく書く。

**活用形**

凪はノートにそのまま写した。

「今日は動詞の活用について確認します。」

先生の説明が続く。

未然形。

連用形。

終止形。

連体形。

仮定形。

命令形。

聞いたことのある言葉ばかり。

凪は半分眠そうな頭でノートを取っていた。

そのとき、先生が言った。

「まず、未然形。」

チョークが黒板を走る。

「未然というのは、文字通り――」

先生が振り返った。

「まだ、そうなっていないということです。」

凪の鉛筆が止まった。

まだ、そうなっていない。

先生の声が続く、
「未然とは、まだ実現していない状態ですね。」

教室では、みんなが普通にノートを取っている。

でも、凪だけは、その言葉から動けなくなった。

「まだ、そうなっていない。」

なぜか、昨夜の自分が浮かんだ。

私は誰が好きなの?

そして、陽菜。

凪は反射的に、陽菜の席を見た。

陽菜は黒板を見ている。
真面目な顔でノートを取っている。

凪は慌てて前を向いた。

(なんで今、陽菜を見るの。)

自分に問いかける。

答えはない。

黒板には、未然形
という三文字。

まだ、そうなっていない。

じゃあ、今の自分は何なんだろう。

好き?

そう聞かれたら、まだ答えられない。

違う?

そう聞かれたら、それも違う気がする。

友達。
もちろん友達だ。

でも、ただの友達?

そう言われると、胸のどこかが抵抗する。

陽菜が誰かと楽しそうにしていると、
気になる。

陽菜に好きな人がいるかもしれないと思うと、
苦しくなる。

会えると思うと、うれしい。

LINEが来ると、何度も読み返してしまう。

陽菜の前では、
いい自分じゃなくてもいいと思える。

そして、昨日の夜。

陽菜の名前を思い浮かべながら、
「女の子なのに」とつぶやいた。

でも、女の子だから違う、とは思えなかった。

凪はノートの端に、小さく書いた。

「好き」
しばらく見つめる。

そして、その下に、
誰にも見えないくらい小さな文字で書いた。

「好きの未然形」

書いた瞬間、胸がぎゅっとした。

何、それ。
そんな日本語、先生に見つかったら笑われるかもしれない。

でも、今の自分には、妙にしっくりきた。

まだ、好きとは言えない。

でも、好きじゃない場所には、もう戻れない。

まだ言葉になっていない。

まだ認められていない。

まだ誰にも伝えていない。

だけど、確かに、何かが始まっている。

それなら、これは、
好きの未然形なのかもしれない。

「じゃあ、この問題。」

先生の声で我に返る。

凪は慌ててノートの端を手で隠した。

そのとき、斜め前の陽菜が振り返った。

一瞬だけ、目が合う。

陽菜が小さく笑った。

凪は反射的に目をそらす。

心臓が速い。

(やっぱり変だ。)

昨日まで、普通に見ていられたのに。

自分の気持ちを疑い始めただけで、
陽菜の笑顔まで違って見える。

授業が終わった。
凪はすぐにノートを閉じた。

あの文字を、誰にも見られたくなかった。

「凪。」

びくっ。

陽菜だった。

「な、なに?」

「今日ほんと変だよ。」

「そう?」

「うん。」

陽菜が少し顔を近づける。

「なんか私のこと避けてない?」

「避けてない!」

思った以上に大きな声が出た。

陽菜が目を丸くする。

「……そっか。」

「ごめん。」

「別に謝らなくていいけど。」

少し沈黙。

凪は困った。

本当は避けたいわけじゃない。

むしろ逆だ。

見たい。

話したい。

そばにいたい。

でも、
そう思っている自分に気づいてしまったから、
今までみたいにできない。

「陽菜。」

「ん?」

「未然形ってさ。」

「え?」

突然すぎる質問に、陽菜が笑う。

「国語の?」

「うん。」

凪は机の上のノートを見る。

「まだ、そうなってないって意味なんだよね。」

「先生そう言ってたね。」

「じゃあ……。」

言いかけて、止まる。

じゃあ、
好きにも未然形ってあると思う?

そう聞きたかった。

でも、さすがに言えなかった。

「じゃあ?」

陽菜が待っている。

凪は少し笑った。

「……なんでもない。」

陽菜も笑う。

「今日それ多いね。」

「ごめん。」

「だから謝らなくていいって。」

チャイムが鳴る。

陽菜は自分の席へ戻っていった。

凪は、そっとノートを開く。

ページの端。

自分だけが知っている言葉。

「好きの未然形。」

指で、その文字をなぞった。

いつか、この「未然」は、
違う形に変わるのだろうか。

それとも、
このまま消えていくのだろうか。

今の凪には、まだ分からない。

でも、一つだけ分かる。

陽菜を知らなかった頃の自分には、
もう戻れない。

好きになる前。

好きになった後。

その間に、こんなにも長くて、

こんなにも苦しくて、
こんなにもやさしい時間があるなんて、
凪は知らなかった。

だから今は、まだそれでいい。

好きじゃないとは、もう言えない。

でも、好きだとも、まだ言えない。

その間にいる自分を、今日だけは急かさない。

凪はもう一度、ノートの小さな文字を見た。

「好きの未然形。」

それはきっと、まだ咲いていないという意味ではなくて、
もう、芽が出てしまったという意味なのかもしれなかった。

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