日本のエリートはイタイなぁと思う時。

日本のエリートはイタイなぁと思う時。

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まだ京都は紅葉には早いですが、山の方では少しづつ色づいてきましたね。

 先日、とある国の赤十字のナンバー2の方がうちにいらっしゃったとき、日本の紅葉の葉っぱって、小さくてかわいい!ヨーロッパの楓は手のひらサイズだったりするんだよね!なんて違いだろう!って、日本の茶庭を見てウキウキしていらっしゃいました。

 同時に、真面目な話では、今、ヨーロッパの移民政策がほんまにあかんことになっていて、本国の元々の国民の声はもう届かない。おかしなことがおかしいまま実行されていく、と嘆いていらっしゃいました。
 各国で暴動が起こっていますが、それは庶民の声の表し方として、知性があると言えるのでしょうか。日本で暴動が起きないのは、日本の庶民が知性があるからです。違いを大きく感じます。
 そして、日本でも徐々に起き始めてる問題は、すでにEUでは取り返しのつかないレベルで展開されているのだそうです。


 EUのエグゼクティブレベルの方々と対話する中で実感するのは、彼らの物事の見方や判断力が根本から一般とは異なるということです。何が本当の本質的価値であり、何が「公益」なのかを彼らは的確に見抜きます。そして一般的な大衆と決定的に違うのは、年齢に関わらず「常に自らの教養を高めるために休日を過ごす」という点です。

 例えば同じ旅行であっても、彼らが世界中どこにでもあるチェーン店に足を運ぶことはありません。大衆旅行者がテーマパークで時間を費やすのに対し、彼らはその国ならではの店舗を訪れ、日本の歴史や伝統工芸の学び、体験に時間を注ぎます。彼らにとって人生に無駄にしてよい時間など存在しないため、付き合う相手に関しても「確かな教養やその国に関する知恵を持つ人」を厳選し、人間としての深みのある関係を築こうとします。
今回も別れ際に、「日本であなたに出会えたことは一生忘れない。日本の文化を目にするたびに今日のことを思い出すでしょう」と丁寧なお礼をいただきました。大変ありがたく、光栄なことです。

国際化が進む日本ですが、大都市圏の恵まれた層が取り組む「国際教育」はいまだ偏っています。アイビーリーグを目指して高い英語力を身につけさせたり、海外留学をさせたりすることばかりが重視され、最新の英語カリキュラムを謳う進学校に子どもを通わせることがゴールになってしまっています。

しかし、それでは本当の意味で国際社会に通用する人間にはなれません。一流の社交場を実際に目にしてきたからこそ痛感しますが、海外の影響力ある層が重視するのは「知識の量」ではなく「知恵の深さ」です。
リスペクトの対象となるのは、誠実さや思いやりといった人格の気高さ、自己規律、そして得た情報を知恵へと昇華させているかどうかという人間的な要素です。どんなに英語が堪能であっても、日常会話の中にウィットがなく、多様な趣味や教養について熱意を持って語れなければ、ビジネスの枠を超えた真の交流が生まれることはまずありません。

そして、多くの日本人が意識していない真実があります。世界はどこまで行っても厳然たる「階級社会」であるという事実です。海外ではそれがより露骨に存在します。ロイヤル、ミドルクラス、大衆は決して同じではありません。

全員が平等であるかのように見える日本でさえ、実態は同様です。だからこそ日本には今も皇室が存在し、旧貴族層もその人脈を保持しながら社会の各領域に影響を与え続けています。公に喧伝されないだけで、人間が生きる階層の区別は現実に存在しているのです。

自由民主主義や全人類の平等を謳いながらも、実態は異なります。GHQによって与えられた憲法には理想が掲げられていますが、戦前までは法制度的にも違いが存在し、むしろその方が社会の実態に即していました。

厳しい表現を恐れずに言えば、高い処理能力と知性を持つ者たちがシステムを構築し、それを動かすことで社会を動かしてきた——これは陰謀論などではなく、この世界の厳然たる現実なのです。

 そして、こうした階層や役割の存在は、算命学の世界においては当然の常識でした。
算命学とは本来、皇帝、僧侶、家臣、商人、農民、小作人といった生まれながらに決まっている宿命を通して、個々の役割を生きている間に全うすることを前提として成立した学問です。

「誰もが平等で対等であるべきだ」と大衆が刷り込まれたのは、歴史で見ればたかだか100年にも満たない最近のことです。そうした思想のもとで大衆と高貴なものが混ざり合った結果、何が起きているでしょうか。繊細で真に価値のあるものが、次々と壊されてしまっているのです。

 自然界を思い浮かべれば当然のことです。本来存在しない外来生物が入り込めば、繊細なバランスで成り立っていた生態系のピラミッドが崩れ、自然界全体が不調和を起こします。「自由平等」の名のもとにあらゆる区別をなくしてしまえば、人間社会でも同じことが起きるのです。

例えば、過酷な環境で育ち十分な教育を受ける機会がなかった人と、幼少期から帝王学を授けられ豊かな経験値を積んできた人とでは、大人になったときの判断力が同じ精度であるはずがありません。違いがあるのは当たり前であり、それを無理に一律に扱おうとすることこそが不自然なのです。戦前までの日本人は、そのことをよく理解していました。

しかし現代の社会は、「偽りの平等」の名のもとに、深く考え尽くし議論を重ねた人の一票と、何も考えずに投じられた一票が同じ価値として相殺される仕組みになっています。

これで、国民の利益を正しく反映した政治が行われると思いますか?
税金苦や生活苦に喘ぐ現在の状況は、まさにその結果にほかならないのです。

この世界の本質は階級社会ですが、圧倒的に大衆の数が多いため、教養や教育を通じて磨き抜かれた少数意見は、数の暴力によって常に押しつぶされていきます。この仕組みの本質は、何も考えない大衆を動かすことで、ほんの一握りの者たちが国の実権を容易に握れるようにすることにあるのです。

歴史を振り返れば、GHQはそのための媒体としてテレビや新聞、ラジオといった大手メディアを利用しました。島国であり独自の言語体系を持つ日本人を、コントロールされた情報で囲い込めば、物理的・言語的に孤立した島の内側から世界を俯瞰して判断することは不可能になります。その結果、戦後の日本はガラパゴス化していきました。世界の実態を把握する術を持たず、物事を深く考え検証する習慣を奪われた大衆層が、真の実権を握る者たちに翻弄されてきたのがこの社会の現実です。

しかし現在、多くの外国人が来日し、インターネットを通じて世界中の情報に直接アクセスできるようになりました。日本語を解し、日本のために真実を語ってくれる外国人も存在します。だからこそ、もともと考える習慣を持っている人たちは、この胡散臭い社会システムに少しずつ気づき始めています。そもそも日本は、かつて「一億総中流」と言われるほど民度が高く、世界基準でいえば下流層がほとんど存在しない国でした。私たち本来のポテンシャルは決して低くありません。

「焼け石に水だとしても、みんなで投票に行こう」という話ではありません。まずはこの国の政治システムそのものを疑うべきだと私は思います。アメリカから与えられたこのシステムの胡散臭さ、その「イカサマ具合」を国民全員が知るべきです。日米合同委員会という存在の現実にも、どうか目を向けてほしいのです。


 そんな中でイタイのは、まだ気がついていない、本来は頭がいいはずの人たちが、日本の勝ち組自覚エリート層かな、と思っています。
 海外のエグゼクティブたちは、階級社会の存在を前提として生きていますが、労働者階級への配慮もあり、それを表立って口にすることはありません。

では、初めて会った相手を友人に値するかどうか、どのように見極めるのでしょうか。彼らは、一見関係のなさそうな趣味から政治、歴史に至るまで、多岐にわたる角度からさまざまな話題を振ってきます。その会話への「反応の仕方」から、目の前の相手がどの階層に属し、どれほどの視座を持っているのかをそれとなく測っているのです。

海外で生活する上でも、安全で確かな中流以上の階層と付き合いたいと考えるのは自然なことです。しかし、学校名や経歴といったステータスを直接尋ねるのは、あまりにも即物的で失礼にあたります。だからこそ、彼らは一見何気ない周辺情報のやり取りから相手の本質を察し、信頼できる関係を築くべき相手を見極めているのです。

つまり、英語を話すことそのものではなく、英語で子供たちが何を語るのか、ということの方が、海外の人たちにとっては大事だということ。そして、その中身は、子供の人格と体験が創り出す中身なのです。

 日本で注目される英語教育において、多くの教育機関が「子供を国際人に育てよう」と掲げています。しかし実際には、「英語ができる」「高偏差値の学校を卒業している」「勉強ができる」=「国際人」ではないという本質を、多くの教育機関が理解していません。

 真のエリート層や高い地位の人々との社交において観察されるのは、古典言語や芸術、スポーツなどの多様な嗜みや、洗練された立ち居振る舞い、そして独自の視点で持論を語れる対話力です。これらの豊かな体験に基づく人間性こそが付き合いの基準となりますが、残念ながら日本の一般的な教育では、こうした教養の重要性がほとんど知られていないのが現状です。

 IT領域でない限り、プログラミングやAI活用力、あるいは国内有名大学の学歴などは、それほど重視されなくなっています。海外経験がありこうした変化を理解している親たちは、すでに受験塾を離れ、プロジェクト学習や体験学習へと舵を切っています。

現在、世界的にホワイトカラーの求人は減少しており、「企業に就職する時代」は終わりを迎えつつあります。これからは自ら事業を創出していく時代であり、経営において最も重要となるのが「人脈」です。そして良質な人脈を築くために不可欠なのが、数値化できない教養や人間性、つまり人格そのものです。

これらは子ども時代に最も伸びる要素であり、「非認知能力」や「人格教育」と呼ばれます。海外のエグゼクティブ向け教育機関では、こうした本質を20年以上も前から理解し、実践してきました。

本物の教養を備えた人々は、肩書ではなく相手の人間性を見ています。だからこそ「あなたを大切に思っている」という敬意を、言葉や態度で自然に表現できるのです。そして、これは真の思いやりが育っていない「形だけのマナー」では、すぐに見透かされてしまいます。


 「今の日本のエリートたちに、果たしてそれができているでしょうか?」

…私はずっとそう問い続けてきました。
これまでに出会った人々の中にも、学歴は非常に高くても、一瞬の振る舞いを見て即座にお付き合いを断った人が大勢います。そうした人たちとの関係には将来的な発展性がなく、時間を割くこと自体がむしろ損失だと考えるからです。
あるいは立場上、どうしても付き合わざるを得ない相手であれば、私も彼らと同程度の(形通りの)振る舞いだけで対応するようにしています。
 たとえ、上から目線だなんだと言われようと、自分と合わないものは合わないのです。それでいいと思っていますし、そのこだわりはわかる人へは、帰って私の人格に対する安心感につながっているのです。


 20年ほど前の話ですが、ある有名大企業の課長を務める日本人エリートから、長らく音沙汰がなかったにもかかわらず、突然一通のメールが届きました。
「2週間後、東京で友人の結婚式があるから、そのついでに隙間時間ができた。あなたに会いたいと思っているから、その時間に来てもらえますか?」という内容でした。

その人に対しては、過去に出産祝いを手渡しで贈り、自宅を開放してサプライズパーティを企画して盛大にお祝いしたこともありました。

このメールの何が失礼か、お分かりでしょうか。

「自分の都合のいい隙間時間に合わせて、相手に会いに来い」と言っている点です。このエリート本人には、それがどれほど失礼なことなのか全く分かっていません。一歩譲って、「こちらのわがままを聞いてもらえないだろうか」といった枕詞があればまだ理解できますが、それすらなかったのです。

「人を大切にする」とは、「自分の用事のついで」であってはなりません。仮に実際はそうであったとしても、それを相手に伝えるべきではないのです。「何時から何時までにお時間空いていますか?その時間にお会いできますか?」それだけで十分なはずなのに、そうした感性が欠落しているのです。

その人は、海外勤務経験がありますが、管理職の上司のハラスメントにあったためうつ病になったと言っていました。海外のエクゼクティブがその人を嫌ったのは、日本人だからではないと私は思います。

 また別の「高学歴ママ」の話です。人間国宝が出演する伝統舞台に、たまたま奨励賞のような形で我が子が出演することになり、「応援に来てもらえたら嬉しい」と1万円以上する高額なチケットをお渡ししました。
 当初「子どもの体調が悪いので行けるか分からない」とのことだったので、「お子さんの体調を最優先にしてくださいね。もし行けそうになければ、お知り合いにあげてください」とお伝えしました。もちろんチケット代は私持ちです。

そして後日、返ってきた返事がこれでした。
「子どもの学童のお祭りがあるので行けなくなりました。許してください」

…唖然としました。たとえそれが事実であったとしても、それをそのまま伝えることがどれほど失礼に当たるかという発想が、この人にはないのです。

 普段から相手がどれだけ自分に心を寄せてくれているかが見えていないからこそ、このようなことになります。問題は「断ること」そのものではなく、配慮を欠いた言葉選びによって「相手を軽んじている」というメッセージを発してしまっている点にあります。うちの子の晴れ舞台より、自分の子の学童の祭りの屋台が大事…、わかりますか。そういう誤解を与えないためにも、相手の想いを汲み取れていれば、お互いに気持ちの良い形でお断りできるはずです。

一方で、別のある京都のママは「今回は伺えずに申し訳ない」と、こちらの顔を立てる正当な理由とともに、2枚に及ぶ丁寧な直筆のお手紙をくださいました。教養のある方だと思いました。決して悪く思うことはないでしょう。
 日本に大衆層が勢いを増すに従って、いい年齢なのに、いろんなところで人間力を見られている、ということに思い当たらない大人が多くなりました。

前者2名の高学歴エリートたちは、恵まれた境遇におり、世間で言えば間違いなく「勝ち組」でしょう。しかし、自分に心を砕いてくれる相手に対して、どれほど失礼な振る舞いをしているかに気づく感性を持っていません。

いただいた品や誘われたシチュエーション、これまでの関係性から「相手がどんな想いをかけてくれているか」を読み取ろうとしない——これが大衆の姿です。何も深く考えていないからこそ、無意識のうちに自分の都合を優先し、相手を道具のように扱ってしまう無神経さに気づけないのです。

 また別の話ですが、弁護士や医師の家庭といった、子どもを小学校受験させる「勝ち組ママ」たちの話です。卒園時に園長先生へ贈るお礼の品として、彼女たちが選んだのが「スターバックスのギフトセット」だったのには心底驚きました。
この話を代々洛中に住む京都の方に話したところ、やはり絶句されていました。

贈り物とは、何を贈るかによって「相手と自分との関係性の距離感」を伝える、節目の重要な表現媒体です。これは金額の高低ではなく、「礼」の世界の問題です。しかるべき立場の方に対して、大衆向けのチェーン店で買えるような品を平気で贈ってしまうのは、良識の欠如と言わざるを得ません。

仮に同じ品物であっても、量販店の紙袋で渡すのか、老舗百貨店の包装で渡すのかによって丁寧さの伝わり方は全く異なります。どれほど説明しても、東京の「勝ち組」ママたちにはそれが理解できませんでした。

私が東京の自称・勝ち組層を冷ややかな目で見ている理由はここにあります。関西の良識あるお母様方であれば、きっと同感していただけるのではないでしょうか。
近所のおじさんと、3年間我が子の安全に配慮し教育してくださった園長先生とでは、立ち位置も敬意の払い方も違うという当たり前のことが分かっていないのです。

テストの点数では測れない「本当の教養」を、私たちは本当に身につけているでしょうか。
以前、一度もお会いしたことのない方から突然連絡があり、「お金を払うから、あなたの持つ人脈を紹介してほしい」と言われたことがあります。一体どのような思考回路をされているのかと絶句し、即座にお断りしました。
人脈を金銭で買える道具のように捉え、相手への礼儀を欠いた方とは、絶対にお付き合いしたくありません。
 塾に通わせるよりも、親が日常で背中を見せ、子どもに引き継いでいくべきなのは、こうした「人間としての良識」です。この危うさが、お分かりいただけるでしょうか。

これが、現代の日本のエリートたちに完全に欠けてしまっている感性です。「国際教育」を謳う進学校出身者でさえ、いざ海外に出れば同じ失敗を繰り返します。

エグゼクティブレベルの教養を持つ人に対しても、平気で無神経な振る舞いをしてしまう。問題は英語ができないことではなく、「社交」のルールやマナーが分かっていない点にあります。笑顔や表情を添えて丁寧に言葉を紡ぐことも知らないため、結果として相手にされないのです。

「あなたは、私の都合のいい道具にすぎない」
人を大切にする感性を欠いたエリートたちは、無意識のうちにこうしたメッセージを周囲に発信し続けています。だからこそ、広い視野や深い見識を持つ本物の一流層からは相手にされないのです。先日も、伝統世界の先生が「あの方はお話にならないね」と静かに呟いておられました。

大阪のビジネス街や東京の一部では、そうした振る舞いでも通用するのかもしれません。しかし、海外の基準はもちろんのこと、大阪や京都のエグゼクティブ層もその本質をしっかりと見抜いています。だからこそ、重要な場には物事の分かる信頼できる人材を配置したがるのです。

ちなみに、こうした日本のエリートと同じような無神経さは、アメリカの大衆層や片田舎出身の人々が日本人に対して平気でやってくることでもあります。「自分の村のやり方が世界基準」と思い込んで振る舞うのは個性としては良いかもしれませんが、深い信頼関係を結ぶパートナーとしてふさわしいでしょうか。まずは「こうした厳格な社交の世界が存在する」という現実を認識しないことには、いつまで経っても足元をすくわれてしまいます。

さすが京都だと思ったのは、こうした教養の重要性を深く理解されている本物の先生がいらっしゃることでした。
本来であれば年齢が少し早すぎて受け入れていただけないところでしたが、娘の伸び代を見込んで特別に教授の機会をいただき、今年から毎月、国際マナーと小笠原礼法に基づいた国内マナーの教育を受けさせていただいています。私自身がガサツで子どもに教えきれない部分ですので、本当にありがたく思っています。

本当の意味での「国際人」を目指すのであれば、こうした専門の先生から学ぶ教育こそ、子どもに受けさせるべき内容ではないでしょうか。

海外の教養層は、握手を交わしたその一瞬で、目の前の人間がどれほどのバックグラウンドや理解度を持つ層なのかを見抜きます。そして「この人には物事が分かっている」と気づけば、惜しみなく深い話をしてくださいます。
こちらとしても、AIレベルの情報とは異なる独自の視点から、古来からの日本の思想や宗教についてお伝えすることで、大変に感動していただけるのです。

 しかし、こうした教養も付け焼き刃ではどう楽しめばいいのか分かりません。先日、伝統芸能の舞台を観に行った際、たまたま隣の席になったお子さんが困惑していました。どこを楽しめばいいのかが分からなかったからです。

大衆向けの現代演劇にはストーリーの展開があります。しかし、和洋を問わず伝統舞台芸術というものは、観客があらかじめストーリーを知っている前提で鑑賞するものです。言わば「ネタバレ」した状態で観るものであり、決まった型や同じ結末、同じ振り付け(歌舞伎であれば口上など)の中で「何を味わうか」を楽しむ世界なのです。当然、これは一度観ただけで理解できるものではありません。味わい方を知らなければ、何を見ても意味のないものになってしまいます。

子どもだから分からないのではなく、「鑑賞の視点」を知らないから分からないのです。普段から伝統舞台に触れている子どもは、どこを味わえばいいのかというアンテナが育っているため、説明など不要です。学校の校外学習で一度観て理解できるようなものではありませんし、子ども自身が「面白いか面白くないか」も本質ではありません。その味わいを受け取れる「感性」を育むためにこそ、連れて行くものなのです。

ちなみにヨーロッパでは国の支援もあり、子どもたちにとって舞台芸術やオーケストラ公演、楽器の習い事などが非常に身近な環境にあります。だからこそ、EU圏の子どもたちは自然と「あなたはどんな楽器を嗜んでいるの?」と尋ねてきます。日本の皇族方にお一人お一人の愛用楽器があるのも、ロイヤル(王室・皇室)としてそうした教養を備えるべきだからです。

これからの世界では、知識を学ぶこと自体は個人で探求していくのがスタンダードになるでしょう。しかし「教養」だけは座学が通用しません。自ら感性を育てる体験を重ね、経験値を上げる以外に学ぶ方法はないのです。ただ残念なことに、この重要性に気づいている層は世界的に見てもめっきり減ってしまっているそうです。

あるEU出身の方が仰っていましたが、EU全体で子どもたちがゲームやTV、SNSといった強い刺激に没頭した結果、物事をまともに判断できる層が激減したとのことでした。教養層からすれば、国の存続すら危ぶまれるほどに文化の低俗化や大衆化が進み、大切なものが失われている現状があります。下地となる教養がないため、教養層が大切な話をしても理解できず、高度な感性を要する世界に想像すら及ばない子どもたちが増えているというお話でした。


今、世界規模で人間の知性が奪われつつあります。
その目的はどこにあるのでしょうか。混乱を生み出し、場の雰囲気やムードに容易に流される無知な層を大量に作り出すためです。海外の教養層から話を聞き、我が家の子育ての方針は間違っていなかったと改めて確信しました。もし子どもを深く考えられない人間にしたくないのであれば、私は今すぐにでもテレビやゲーム機を手放すことを強くお勧めします。

ちなみに我が家にはテレビがありません。ゲームに関しても、子どもたちが友達の家で体験したものの「つまらないからいらない」と言ったため買いませんでした。
先週も、小学4年生の娘が自ら「美術館に行きたい」と言い出し、その後自主学習のテーマに選んだのは「古田織部の焼き物の特徴」でした。美術館で自ら学んだことをノートに活き活きとまとめていたのです。「子どもに最初に何を与えるか」がすべての勝負だったと、パートナーともよく話しています。

多くの外国人が「日本も海外と同様に、人々の判断力や良識が壊されかけている」と警告を発しています。私はこの言葉を非常に重く受け止めています。

人づくりは教育から始まります。しかし教育とは、子どもをAIのような効率的な機械にすることではありません。人間性を豊かに育むことこそが本質です。本来であれば高い知性を持つべき人々が、間違った方向へ舵を切ってしまう現状を、私はとても残念に思っています。
日本人が数を減らしている今、日本の親たちが気がついて、子供達を正しく導くための頭の良さを発揮してほしいと思います。
日本の子供の一部に判断力があるからではなく、日本は日本全体の総力戦で判断力があったからこそ、これまでこの秩序を守ってこられたのですから。
いい意味での、みんなで豊かになろう、というのが大事なんです。

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