京都にはいろんな老舗があります。そして、何百年も同じ家業を継続して行っているので、いいか悪いかは別として、当然その領域の既得権益層が幅を利かせています。数年前、闇深いとメディアに注目された花街や織物業界の卸のような職人に近い世界なんかもそうですよね。新規参入者やよそ者に荒らされないよう団体でスクラム組むことで利益を分け合うような業態はいくつもあります。そこが他県民からすると、京都の闇に見えるのかもしれません。
滋賀のチェーン店オーナーさんが、京都出店はホンマ最悪やった、と言っていたのを聞いたことがありますので、そうなのかもしれません。
また見方を変えれば、それくらい本気で激しく、京都の商人は生き残りのために何百年も狭い世界で見えない陣地とりをやってきたとも言えるわけです。世の中が資本主義社会になってからも、マーケティングの世界で出てくるような自営業・中小企業が取れるあらゆる戦略や営業作戦を、京都の商人たちはすでに徹底的に使いまくって、生き残っていますので、昔、先輩のコンサルタントから言われたのは、マーケティング戦略を学びたかったら、京都を勉強しろ、そこには全てがある、といわれた程でした。
確かにその言葉の通り、京都の自営業者はみんな戦略家です。一国一城の主として、どのように切り盛りしていくか、この狭い土地の中で問題を起こさずにやっていくかということに繊細に心を配っている面は確かにあります。
でもね、面白いことに一方で、京都は純真さも同時に秘めているんですよね。
他県民が言うような、京都人=腹黒い、とはまたちょっとなんか違うんです。
他県民と比べてですが、一般的な京都の経営者が見ているのは、商売としての物理的な世界の損得と精神的な損得と全体の公益性にとってどうなのか、と言う三つの領域のバランスなんです。その感覚を大切にしています。何代目さんかになると特にそういう面が出ます。
究極的に善だけを追求すれば、貧乏になって足元が倒壊するし、究極的に金だけ利益だけを追えば一族が不幸になる。頭の良さを暴走させて、頭の悪い人たちをトムソーヤのごとく使い切れば、地域社会そのものが疲弊する。だから、京都の経営者というのは、基本的にこのバランスを保てるように一応、ちゃんと考えて運営している人が多いんですよね。それが特徴だと感じます。
逆にそういうことまで考えてないのは、他県民出身者の移民組京都市民に割と多い気がします。
京都のものだと思われている茶道ですが、実は戦国時代のその昔は、大阪の豪商がすごく関わっていた世界でした。千利休は、魚屋さんでしたが、今でいうところの魚屋さんのイメージではありません。魚といえば、1日で100両が動くような世界で、千利休は商売のエキスパートとして、天下の台所で豪商として名を馳せた人だったんで、禅とか言われる前に、損得世界の視点を忘れません。ちゃんと見通した上で行動します。禁欲的な禅寺の僧侶などではないんです。私から見ると裏千家にしろ、表千家にしろ、その組織図を見るとさすが、大阪の商人の子孫だなぁといいたくなるような、組織的に得する仕組みがちゃんと、たくさん練り込まれていますよね。DNAなのかなぁと思います。
茶道は、拠点は京都だとしても、実際には京都のものというよりも、大阪の魂入りなのかもしれない、と最近密かに思っています。
しかし、一般人からすると、金の損得に敏感なことはよく批判の的になります。高価格の商品の販売は、悪の証拠にされることがあります。
だから、ドライな損得計算が働く合理的な世界と人間の善性の世界って、果たして両立できるのかな、なんて思うんじゃないでしょうか。一般の日本人は、清貧こそ素晴らしい、という理想像があったりもしますからね。
とはいえ、そういう理想が無になるかのような資本主義の原理が現代社会にはめちゃめちゃ働いていますよね。
真っ当に生きてきた、お金に執着しなかった普通の一般の人たちが、家賃が高くて払えなくなったり、年金だけでは暮らせなくなっていたりする昨今です。
悪いことしたり、強欲に生きている人たちが日々の生活を心配せずに、たくさん存在している中で、清く生きようとすること、正しいことをして生きようとすることって、実は意味がないことなんじゃないかって、普通の日本人たちはそう感じることもあるんじゃないでしょうか。
私も時々、そう思うことがありますよ、正直。
誰かのために親切にすることは、結局自分の自己満足で、大海の一滴くらい意味のないことなんじゃないかってね…。ボランティアや福祉って損することなの?って。
ただ、個人的に最近の京都の経営者何代目たちやその子孫の栄枯盛衰を観察したり、京都の勝ち組層の子孫が多く通う同志社大の学生たちの器を眺めていて、次第にまた別な考えも生まれてきたんですよね。それは、やっぱり損得だけで生きている人たちには、やっぱりそのツケは必ず何代目かの子孫が払うことになるんだなぁということ。
そして、だからこそ、善を目指すことは、決して損じゃないな、と。
その理由は、やっぱり自分が善性を大事にしていきた場合の1番のメリットとは、妖怪アンテナのように、ふとしたお付き合いの瞬間に「違和感が働くようになる」ことなんだと思うんですよ。
全ては判断力から生まれますから、その恩恵は実は大きい。
エリートはそつないです。礼儀正しいし、求められたことに対して答えるし、言われたことだけしかしないので、余計なことを気を利かせようとしたりすることもない。感情の起伏もむき出しにしません。好ましい人間像であり、たくさんの箔付を作るように動く。優等生とはそういうものです。
しかし、その中には、心の冷たい人間がいます。自分の周辺と身内の損得しか考えていなかったりする層が少なからずいます。他人の善意に乗っかり、自分は決して身を切らない。優秀な学校に通い、言葉は優しくて、一見誠実そうに見える彼らの心の中には「それをして、俺になんのメリットがあるの?」ということしかない場合がたまにある。小さい頃から、親に用意された環境の中で飼われていくうち、本心では他者への思いやりや愛は薄いのに、影響力のある人に受ける仮面を被ることにだけ長けてしまったエリートです。得に、東京のエリート組は、その比率がものすごく高いと思います。
大概の人たちは、その正体に気がつきません。
ところが、そういう人たちに出会った時、本物の善性を生きてきた人たちは、ふとした瞬間に言語化できにくい「違和感」というものを感じます。
どんなに言葉を丁寧にしても、「ん?」というモヤモヤが拭えないんです。
それは、本当に心があったら、そうは言わないな、とかそういうことはしないよな、という思いに至るからです。
つまり、そういう違和感を感じる人というのは、自分が善性にこだわって生きているからこそ、自分を基準にして、自分がその立場だったらそういうことにはならないぞ、という「違和感」として意識に上ってくるわけなんです。
形だけの冷たい心の人たちは、自分たちが表面だけ合わせてうまくやっていると思っています。世の中で目立っていないと思っています。
でも本当に善性を実行している人たちは、自分の善なる心に従って行動もちゃんと伴っていますので、口先だけいいことを言っている人たちの本音に、しっかりと気がついてしまうんです。そして、この人に協力しても、付き従い続けたとしても、結局良いことはないな、とわかってしまうんです。
ただ、当の取り繕っていい人をやっているエリートさんたちは、自分のその本心はバレていないと思っています。それどころか、本気で善性に従って行動をとっている人たちを、お人好しでいつもバカを見てる人、簡単に騙せる損をしている人たち、と心の中で思っています。
でも真実は、逆なんです。本気で善性を生きている人たちは、自分と同じ善性を持っている人と何かをやろうとした時、出す足が一緒です。
だから、本当に心のある人が誰か、というのが、コントラストを伴ってはっきりと見えているのです。そして自分が実行して苦労を背負ってきたからこそ、相手のやってくれていることの重たさがわかります。
どれだけ貴重な人間であるのかがわかります。
そういう人を手放さないようにしようと考えますし、そういう苦労の経験がなくとも、気が合うなとなんとなく感じ、その人と積極的に交流しようとするのです。そして、実際、そこから生まれてくるチャンスは、普通の人が掴めない損失の少ないありがたいチャンスであることが多い。
一方、表面だけいい人を演じているエリートは、自分の本心が見透かされていることに気がつきません。自分が他人に本気で親切にしたり、相手の得になる行動をしたことがないので、本物のチャンスに気がつくこともありません。胡散臭い話だと思い、その話にのりません。自分のエセ善人の姿が、大多数の人に違和感持って気が付かれない場合は、実際には組織全体がそうなっている場合もあり、その周りも自分と同じように表面だけ取り繕うのが上手い、全員が損得計算だけの人なんですよね。
そして、本当に善性をモチベートにして実行力を持って組織を動かしてきた人間は、自分が主体となって動き、自分と同じように善性を持った有能な人を抜擢します。そうでない人は、自分のコマとして使える使い勝手のいい、いうことを聞く人を抜擢します。有能なA I的な人間を好みます。
だから、この先、自分の本当の人生をメイキングする上で、組織の上の人がどんな人であるか、というのは本当に重要です。ハラスメントされてボロボロになる前に、その違和感、重要です。
そして善性を生きている上で自分が感じる違和感というのは、明確にその環境やその人間が自分本来の性質と合うものではないよ、と本能が教えてくれているわけです。
海のものは海のもの、山のものは山のものです。
違和感に対して、無理に合わせる必要はありません。
自分が違和感なく馴染める世界で生きるためにも、そうした心ある人と出会うためにも、自分が自分の信じる善性を選択して、口先だけではなく実際に実行して生きることは、誰が何を言おうと、周りめぐって自分自身を生かすことになっているわけです。最良の処世術でもあるわけです。
話を戻して、京都の商人の世界は、損得の世界ではありますが、同時に善性を大事にした生き方も尊んだ面があります。それは、そうした生き方が周りめぐって、損得の世界においても理にかなっていたからなのではないか、と私は思うのです。良い人脈、信頼できる人や話と繋がるために、自分の内側にある目利き感を養うためにも、自分自身の物差しをまず清めることが、一番自分の利にかなってくる事を、体験的に知っていたのではないかと思うんです。
四条河原町か高倉あたりに立て札があるんですが、昔の京都の商人は、その年もうけすぎてしまったな、と思ったら、その分在庫一掃セールをして、貧しい人たちに年末豊かな正月を送ってもらおうとして、破格で放出していたそう。そこでその年、儲けすぎた分を相殺したという風習があったそうです。
商人が幸せに生きるため、心のセンサーを美しく保つための禊のような風習だったのではないか、と私は、個人的にそう思えるのです。
ちなみに、茶道世界の、千利休や古田織部は、結局のところ、時の権力者に粛清されましたが、その原因の一つは、茶道というコンセプトを使って、儲けすぎたことにあります。金の力を持ちすぎてしまった。
茶道家はブランド・マーケティングの世界とおんなじなので、利休も織部も精神性を大事にしつつも、一方で大阪の商人として、美濃の商い武士のように、加速して財をなしすぎた背景があります。
本来の人生の枠を超えて持ちすぎたパワーは、自然界によって、自然に倒壊させられます。そうしたことももしかしたら、権力の動きを観察していた京都の商人に影響を与えていた可能性もあります。
私自身、その違和感のおかげで、何千万レベルの損失を被らずに済んだ体験が何度もあります。Jemmyさんは、育ちが良いと(多分半ば嫌味で)言われることがありますが、(※実際は育ちがいいわけではないですからね!誤解なくよろしくお願いします。w)善性を選択するおかげで、変なお客さんを見極めることもあるし、今の自分があると思ったりもしております。
甘くはないし、お人よしでもないけど、美しい世界を夢見ること、理想を選ぶこと、善を選ぶことでしかみえない世界はちゃんとありますよ!
まだまだ、いろんな検証の余地はありますが、世の中で私、損しているかもしれない、と思いつつ、人が善を生きることは、人のためならず。自分の判断力を正しく保つことで、チャンスの分岐点で自分が救われていることがたくさんあるからなのだ、と他の同じような人にも勇気づけたい気持ちでお書きしました。そして、先日、この議論を個人的にA Iとしたのですよ。
そしたら、A Iは、善を選択するメリットを明確にいえなかった。善とは、個人的な価値観の趣向としか言わなかった。笑
「いや、そうじゃないだろう、A Iよ。」と私は思ったわけです。
これから、世の中、大混乱はあると思います。何せ、世の中の仕組み自体が大変革を迎えています。昔、この先で戦後の混乱と同じようなことが起こると予言しながら美輪明宏さんは亡くなりました。その中では、善を生きることに迷いが起きて当然な時代になってもおかしくない。だからこそ、そんな時代が来る前に、人間だからこそわかる善のメリットをこの場で、一人一人が改めて確認するのは大事かな、とふと思いました。