Jemmyさんちの子供は、普通の子達とだいぶ違う、とよく言われます。
育て方もだいぶ違います。もし、いい面を取り入れたいなぁと思ってくれるならば、子供に用意されている体験系イベントは、子供にアンテナが立ったらどんどん参加させてあげるべきですよ、と私は思います。
ちなみにこれは平安装束体験の子供むけイベントで、そのためにわざわざ子供サイズに作られた衣装を貸してくれています。
おしゃれ大好き禄存星の娘は大喜びでした。
自分の実生活に関わりのない世界は、子供の興味から離れていきます。
面白くないと思ったものは、子供が自ら学ぼうとはしません。
例えば、今うちの子供は、英検2級・TOEFLプライマリほぼパーフェクトと英検準二級ですが、試験前の過去問をしたりはしたものの、そのための英語の試験勉強はほとんどしたことがありません。
私が英語を教えられたこともありません。(子供の方がわかっているため)
ただ、ただ、幼児期に英語を学ぶと美味しいことがあるんだ!という体験を繰り返したからこそ、うちの子供は何も言わなくても、どんどん勝手に英語のことを調べていきます。英語のYoutubeをこっそりみてにやけています。
今多い、英語嫌いと言われる子供たちは、実は英語が嫌いなんじゃなくて、英語で楽しかったり、得した思いをしたことがあまりないので、嫌いなんです。それは帰国子女もそうで、生きてくために仕方なく英語学ぶしかなかったという環境に置かれた場合も、大人になってから心境的にはなかなか苦しいみたいですね。英語と日本語という葛藤の世界の中で終わってしまう子も多いようです。
だから、勉強の成果がどうかよりも、まずは触れてみて学ぶということが楽しい!と思える世界をたくさん体験させることが大事なんだと思いますね。
世の中はどうしてるのかわからないので、なんとなく、うちのこどもたちに聞くと、クラスのほとんどの子供は遅くまで塾に行っていて、あと空いている時間はゲームをして時間を潰しているのが普通なんだそうで。
クラスで成績の良い子の中には目指すは中学受験!というような子も多いみたい。
しかし、うちの子供は塾に行っていない。(世の中体験塾という学科関係ない塾は行きました。w 鳥の屠殺体験とかがある塾です。)
それも、算命学は不自然を嫌いますし、子供の気が向かないのにじっと座学をさせることは、子どもにとって不自然だと思うからなんですよね。
そもそも発達学的な話ですが、人間の子供というのは、他の動物と違って、未完成で生まれてきます。
どんな環境に生まれるかによって、生まれた後に環境設定を行えるような柔軟性を持って生まれてくるんですね。
つまり、小学生までの子供は、まだ神経系が柔軟で、五感全てを使って、さまざまな刺激を取り込んで今後の生きていく環境設定を行っている最中なので、学校の学科のように圧縮して思考形態が決まりきった、偏った情報だけを取り込む我慢ベースの環境設定は子供の精神構造に良くないと思うからなんですよね。
算命学世界で子供を象徴するのは、鳳閣星・調舒星です。
これらの星は、デザインや芸術の星でもあります。
そして直感をベースに習得していく星でもあります。
その星が象徴する、食べること、楽しむこと、感情世界の起伏を味わうこと、それが子供が子供らしく生きている自然な姿です。理屈抜きの世界です。
逆に言えば、子供が大人になるということは、その感覚世界、感情世界が徐々に閉じられていくことです。大人になれば、周りの反応に左右されずに、思いっきりくったくなく何かを味わう感覚はなくなるのです。
だから、親が子供時代を昇華させてあげるということは、子供時代をめちゃめちゃ楽しく過ごさせてあげる、ということです。そして、持っている感覚器官をフルに活用させてあげる時代を過ごさせるということです。
その体験がどんどん増えていくと、子供が大きくなった時に、それがマテリアルとして自分の中の思考の叩き台になっていきます。
そして、逆にその子供時代を奪われた人たちは、未消化なのでなかなか大人になりきることができません。いつまでも、失った子供時代に固執して、人生を楽しむことができません。後ろ向きに生きることになります。自分の子供にも嫉妬したりして、子供の未来を邪魔してきます。
しかし、誰が悪い、いいって話じゃないんですよ。
子供時代というのは、自分で環境を選べませんので、どんな親のもとに生まれるか次第で、同じ宿命でも体験世界が違います。だからややこしい。
自分主体に世界を捉え直す必要がある。
例え、過去が自分にとって望ましい環境がなかったとしても、そこにこだわっているだけでは人生何も変わりません。親のせいにしていても、その先はありません。
それによる弊害が自分の人生だけならば良いのですが、親に執着している人はその思いが必ず自分の子供との間でも出てきます。
濁った念のフィルターを通して子供と関わり合ってしまうからです。
夫婦関係にも必ずそれが出てきます。
しかし、本人は無自覚です。ですから、周りがいけないのだと思い込みます。
例えば、うちの例で恐縮ですが、ピカチュウの母親はちょっと変わった人で、複雑なことが苦手で、当たり前の判断力がない人でした。そういうわけで不都合が起きた時、その後始末を子どもにやらせることが多かったんですね。
それがピカチュウには不満だった。なんで俺がやるの、また俺かよ、と内心不満を溜めて育った。ピカチュウの中には、無自覚に、その思考回路が出来上がっているんです。
すると、子どもに対しても、私がちょっと何かを頼んだ時にも、不満顔でチッと舌打ちしたり、「お前、ほんとに能無しだな!」とでも言いたげな表現がこっちに伝わってくるわけです。
多分、本人的には全く無意識の行為だと思います。
でも、いつも母親に使われた、母親のフォローをしなくてはならなかったというところが消化できていませんので、そのフィルタ越しに自然と今現在の事象に反応していくわけです。
周りの人も、彼にそのフィルターがかかっていることは見えませんので、彼がその時に反応したのは、母親への怒りであったとしても、目の前の自分に向けられているように感じます。そこで、「なんだよ!その態度は!」とトラブルに発展していくわけです。子供にも嫌われます。
ここで、立ち止まって、親に執着が大きい人ほど、親への思いがどうだったかがそのまま社会性に反映されているのだ、という意識の仕組みがわかっていれば、「また、自分の世界に入ってんなぁ〜」と淡々とスルーすることができますが、おそらく世の中はそんな仕組みなど知らない人が多数ですから、仕事先、友人関係、あちこちでトラブルに発展していきます。
そのことを経験的に知っていた人がいました。
昭和を代表する、コンサルタントの神様と言われた船井幸雄氏です。
新卒採用の際に、彼が一番気にして質問を繰り返したのは、面接者とそのご両親の関係性についてだったといいます。両親との関係性が良くない人間は、のちに必ず組織でトラブルを起こすということを経験上知ってのことでした。
これは本当に理にかなっていて、両親との関係性が本当の意味で良かった人というのは、元々の宿命もいいはずで、親を含んだ一族で宿命消化をきちんとやってきている一族なので、カルマも運も良いのです。ですから、その人を採用すれば、会社は当然繁栄します。運というのは、自分を含めた関わり合いのある全員で作り上げていくものです。
実学算命学でもそこに近い方針を取ります。
両親という人間は変わりません。両親は自分にとって、単なる環境です。自然界の一部として、両親をとらえます。
自然界は我々の思うように変わってくれません。暴風雨が突然きたり、地震がやってきたり、旱魃がやってきたり。完全に打ち勝つことはできず、命は自然界に握られているかのようです。
我々は受け身になるしかありません。
その自然界に対してどういう姿勢で生きるのかを選ぶことは自由にできます。
自然界に対して、西洋の資本主義経済は、自分たちの能力で克服するもの、と定義し、東洋、特に日本では、自然界と共生していくもの、自然界の法則に逆らわずに自分たちがその中で大きな被害を受けなくて済むためのやるべきことをやることという受け身の姿勢と調和を選びました。
親という自然環境に対峙した時も、我々は同様にその二つの姿勢に分かれます。
親に対して、畏敬の念を持ち、従うしかない、と自分側を押さえていく方向に捉えるか、改善していくべきだ!と論理的に分析し、構造を知り、親に立ち向かって進んでいくか。何が正しいかは、その人の宿命によりますが、要するにここでいいたいのは、親も自然界の一部なのだと捉えるのが算命学、ということです。
しかしここで問題になるのは、人間の子供が、外側の環境に対応するために未完成で生まれてくることです。外側の環境として、一番深くプログラミングされるのが、この両親という外界の自然環境です。
一旦プログラミングされて仕舞えば、自分が一人の人間として、起動し始めた”生体AI”である私たちは、自分の中のプログラミングのバグになかなか気がつきません。
つまり、自分たちが自然な意思で行なっていると思っている行為の全ては、生まれた時に(胎児期から)プログラミングされたプログラム通りに動いているのだということに、まず気がつきません。
自分から見える世界が間違いのない世界だと信じ込む盲目者と同じなのです。
仏教・密教の世界は、実は古代から、ここに気がついていました。
イエス・キリストも、おそらく、それに気がついていました。
親を尊敬しなさいとかいう、儒教的なことを言っているのではありません。
まず、今のあなたは、プログラミング後の自分なんだ、ということを謙虚に受け止める、ということから始める必要があるんだということです。
仏教の教授に言われたことですが、仏教では、如来を目指す道・仏道に入っていない人を外道と言うけど、じゃあ仏道に入れた人とそうではない外道との一番大きな違いは何か、というとそれは、自分の意識を観察する目を持っているか、持っていないか、ということだと定義づけられているそうです。
今の私は、本当に私を生きているんだろうか?
それとも、生まれた時からプログラムされてきた環境設定によって、反応し続けているだけなのだろうか?
この疑問を持てる意識状態になった時が、まさに仏道の入り口であると言うことなんですよね。
そもそも釈迦は、古代インドの世界が伝えてきた、人が輪廻転生を永遠に続けるような人の人生の哀しさから抜けるにはどうしたらいいのかな、とずっと考えてきました。
そこで、自分の世界に対する反応性を立ち止まって考えてみることを提案しました。人には四苦八苦と言われる苦しみがあるけど、その苦しみの元って何?
苦しみや葛藤を引き起こしている元って何?
そこから考え始めました。
そして気がついた知恵がありました。
人間が環境設定によって、反応性を繰り返し続けているだけならば、動物と変わりません。そして、生まれた時の初期設定のまま世界を捉え、それを動かし難い実体のあるものだと思い込み、その人生を体験して終わることの繰り返しになります。
ですから、そうした生き方に比べると「生きるってそもそもなんだろう?」と悩んだり、立ち止まれる人、詰まるところ「自分の今の人生って?」と考えられる人というのは、かなり意識の進化系の人だと言えます。
そして、フィルター(煩悩)の存在だけはどこかで嗅ぎ分けている人だと言えます。
単に嫌なことに葛藤しているだけでは、プログラミングされた世界の中で葛藤する生体AIのままです。
まず、自分の見ている世界を疑え!
こんなところから、キアヌ・リーブス主演の映画、マトリックスも始まっていますよね。
意識の世界を探求することは、我々が自分たちの本当の意思を勝ち取り、自由を手にすることと同じだとプロファイラーの私は考えています。
そして、その正解はその人、それぞれにあります。
また、どうすればすでに書き込まれてしまった環境設定やプログラミングを修正することができるのか、これが次世代を生きる人類の幸せの鍵だと思います。実学算命学では、運勢によって幸不幸を固定しません。
変えられる部分もあるから、変えられない宿命に対して、「運命」(命を運ぶ)と呼んでいるのです。
というわけで、子育てはどうしたらいいのか。
子供は環境設定を行なっている存在です。
親子関係をなるべく良いものにし、世界をワクワクする楽しいところにする。自分のしたいことをどのように実現していくか、方法や抜け道を学ぶ時期にする。言われたことを遂行することが学習ではなく、自分のやりたいことに主体性を持って実行していく力をつけることが学習です。
そして、そのためには世界のさまざまな体験を素材としてたくさん入れてあげることです。自分の選り好みだけでなく、まだ未知の世界をたくさん見せてあげることです。
これは、幼児期が一番重要です。物によっては親が体験をダイレクトに入れていい場合と加工して体験させてあげた方がいいこともあります。噛み砕いて柔らかくしてあげながら、のほうがいい時があります。
なぜなら新しい体験が恐ろしいことと学んでしまうと、その後、どんどん縮小していきます。意志を尊重しながら、できるだけ禁止事項を減らして、年齢に見合った温かく平和で楽しい情緒の世界で包んであげたいものです。
そうやって育ててきた子供とそうでない子供の一番の大きな違いは、初めての出来事にどのように向き合うか、ということや、自分のやりたいことを実行する力にそのまま現れます。
心にやりたいことがあっても、周りから怒られることを気にして諦める子供というのは、早くからたくさんのことを親に禁止されてきた子供です。
日本の子供はルールを守り、礼儀正しい反面、これが大人になって大きな心理的な壁になります。命令を遂行する力はあるけど、自分が本当にやりたいことをやろうとした時、なぜかブレーキがかかり後回しにしていく子供などはまさにそれがネックになっています。
幼児期は欲しいものに真っ先に手を伸ばすことを禁じないでください。
意志を尊重するということはそういうことです。
不足によってきょうだい喧嘩が始まるならどっちかに我慢させるのではなく、親が物質を増やしてあげてください。
あとで教育費を何十万と積んでも得られないものを今得ようとしてるんですから、百均で欲しいものを買って上げることなどわけないことではないですか。
またすでに大人になった人には、提案したいですね。
うまくいかないことがあった時、ちょっと立ち止まって自分に尋ねてください。
私は親とどんな関係性を作ってきたのかな。
それは、私にとってどんな意味があったのかな。
そこが変わらない限り、プログラミングされた全ては、一向に変わることはないのです。
世の中、常識、あらゆることが、まがいものだということがわかってきた今、自分の信じているものを疑うこともわけのないことです。
マトリックスのネオになることから、探究は始まります。