正しいことを言っているつもりの、その心を疑ってみる
「間違ったことは言っていないんだから、別にいいでしょう」
誰かと口論になった後、こんなふうに自分を納得させた経験はないでしょうか。
相手の仕事に問題があった。約束を守らなかった。配慮が足りなかった。こちらが指摘した内容は、確かに間違っていない。
だから、多少きつい言い方になっても仕方がない。
ところが、翌日になって冷静に振り返ると、少し気になることがあります。
あそこまで言う必要があっただろうか。
相手の間違いを正したかったのか。それとも、腹が立ったから言い負かしたかったのか。
この二つは、似ているようでまったく違います。
そして厄介なことに、怒っている最中の私たちは、その違いをほとんど疑いません。
むしろ、自分が正しいという確信が強い時ほど、言葉は容赦なくなります。
今回は、この怒りについて考えてみたいと思います。
怒っている時、人は自分を疑わない
たとえば職場で、同僚が何度も同じ失敗を繰り返しているとします。
最初は丁寧に教えていたものの、一向に改善されない。とうとう我慢できなくなって、強く注意してしまった。
「何回同じことを言わせるんですか。少しは自分で考えてください」
さて、この人は間違っているのでしょうか。
同じ失敗が続けば、仕事に支障が出ます。改善を求めること自体は当然でしょう。
しかし、ここには二つの問題があります。
一つは、同僚の仕事をどう改善するか。
もう一つは、注意する側が自分の怒りをどう扱うか。
私たちは、この二つをごちゃ混ぜにしがちです。
「何度言っても分からない相手が悪い」
それはそうかもしれません。
では、その相手を怒鳴れば仕事ができるようになるのでしょうか。
萎縮して質問できなくなり、余計に失敗が増えるかもしれません。反発して、話を聞かなくなることもあるでしょう。
もちろん、厳しく指摘することが必要な場面もあります。
しかし、厳しさと怒りは同じではありません。
冷静でも厳しいことは言えます。
反対に、怒りに任せて優しい言葉を並べることもできます。皮肉や嫌味などは、その典型でしょう。
問題は声の大きさでも、言葉遣いだけでもありません。
何を目的として、その言葉を使っているかです。
相手の改善を目的としているのか。
それとも、自分の不快感を相手に思い知らせることが目的になっているのか。
怒りの最中に、これを正確に見分けるのは簡単ではありません。
なぜなら怒りには、自分の行動を正当化する理由が次から次へと湧いてくるからです。
腹が立つ理由なら、いくらでも見つかります。
相手の態度が悪かった。以前にも似たことがあった。こちらはずっと我慢してきた。周囲だって迷惑している。
どれも事実かもしれません。
しかし、事実が正しいことと、そこから生まれた自分の行動が適切であることは、別の問題です。
ここを混同すると、人は自分の正しさを使って、いくらでも他人を傷つけられるようになります。
怒りは、現実を正確に見せてくれるのか
怒りについて、もう一つ考えたいことがあります。
私たちは怒っている時、「相手の本性が見えた」と思うことがあります。
あの人は自己中心的だ。
あの人は誠実ではない。
あの人は人の気持ちが分からない。
一度腹が立つと、相手の過去の言動まで違って見えてきます。
以前は気にならなかった言葉が嫌味に聞こえ、何気ない表情にも悪意を感じるようになる。
そして、自分の判断がますます正しいように思えてくる。
しかし、不思議なことです。
昨日まで普通に付き合っていた人の人格が、一晩で突然変わったのでしょうか。
変わったのは、相手ではなく、自分の見方かもしれません。
怒りが生じると、私たちの注意はその怒りに合う情報へ向かいやすくなります。相手の良かったところは思い出しにくくなり、嫌なところばかりが目につく。
それでも本人は、現実をありのままに見ていると思っています。
ここに危険があります。
怒りは、自分の判断を正しいと感じさせることがあっても、その判断が正しいことまで保証してくれるわけではありません。
仏教では、怒りや憎しみを表す「瞋(しん)」を、貪欲や無知と並ぶ三つの不善根の一つとして扱います。
これは、腹を立てた人が悪人だという意味ではありません。
怒りに支配された心は、ものごとを正しく判断しにくくなり、その状態で行動すれば、さらに苦しみを生む原因になりやすいということです。
考えてみれば、当たり前の話です。
怒りに任せて送ったメールを、翌朝になって後悔する。
腹立ちまぎれに別れを告げて、本当に関係が終わってしまう。
子どもをしつけるつもりが、ただ恐怖を与えてしまう。
どれも、最初から悪い結果を目指して行動したわけではないでしょう。
正しいことをしようとしたのかもしれません。
しかし、怒りを行動の原動力にしたことで、望んでいた結果から遠ざかってしまったのです。
怒りを我慢することにも限界がある
ここまで読むと、「やっぱり怒ってはいけないんだ」と思う方がいるかもしれません。
しかし、話はそう単純ではありません。
怒ってはいけないと自分に言い聞かせ、無理に笑顔を作り、嫌なことをされても黙って耐える。
それで心が安らぐでしょうか。
表面上は穏やかでも、内側では相手を責め続けているなら、怒りは少しも終わっていません。
我慢を重ねた末に突然爆発する人もいます。
周囲からは「普段は温厚なのに、どうしたのだろう」と驚かれる。
でも、本人の中ではずっと続いていたのでしょう。
つまり、怒りを外に出さなければよいという話でもないのです。
ここで区別したいのは、怒りが生じることと、その怒りに従って行動することです。
誰かに理不尽なことを言われたら、不快に感じることはあります。
大切な人が傷つけられたら、強い反発を覚えることもあるでしょう。
その反応が生じた瞬間に、すべてを意志の力で消すことはできません。
しかし、怒りが生じたからといって、その怒りが命じる通りに行動しなければならないわけでもありません。
腹が立った。
その事実は認める。
けれど、相手を攻撃するかどうかは別に考える。
ここに、理性の働く余地があります。
仏教の修行は、怒りを押し殺して平気な顔をするためのものではありません。
怒りがどのように生じ、何によって強まり、どうすればそれを育てずに済むのかを観察することに意味があります。
怒りが湧いた自分を責める必要はありません。
ただ、その怒りを正義の証明として使わないことです。
怒りがなくても、問題は解決できる
仮に、目の前で誰かが他人を傷つけていたとします。
それを止めるには、怒りが必要でしょうか。
もちろん、怒りを感じることはあるでしょう。
しかし、本当に必要なのは、その行為を止めることです。
危険な状況なら、安全を確保する。
助けが必要なら、人を呼ぶ。
問題があるなら、適切な方法で責任を問う。
そこに怒りがあってもなくても、必要な対応は変わりません。
むしろ、怒りに任せて相手に殴りかかれば、被害が大きくなる可能性さえあります。
怒りは、問題に気づくきっかけにはなるかもしれません。
しかし、問題をどう解決するかという判断まで、怒りに任せる必要はないのです。
これは家庭でも職場でも同じでしょう。
子どもが危険なことをした。
注意する必要はあります。
しかし、親の怒りをぶつけることと、危険な行為を正すことは違います。
部下が失敗した。
改善を求める必要はあります。
しかし、上司の苛立ちを思い知らせることと、仕事の質を高めることは違います。
誰かに不当な扱いを受けた。
必要なら抗議し、距離を取り、正式な手続きを通じて改善を求めればいい。
そのために相手を憎み続ける必要はありません。
むしろ怒りを少し脇に置いた方が、何をすべきかが明瞭になることがあります。
怒りを使わないとは、何も言わないことではありません。
必要なことは言う。ただし、相手を傷つけたいという欲に、自分の言葉を任せない。
その違いです。
本当は、何に怒っているのか
さて、ここからが少し厳しい話です。
私たちは他人の不正や非常識に腹を立てます。
では、その怒りは本当に、相手の行為の悪さだけを原因としているのでしょうか。
たとえば、職場で誰かが仕事を怠けているとします。
自分の仕事には直接影響しない。それでも腹が立つ。
「あの人ばかり楽をしている」
その時、何に怒っているのでしょう。
仕事を怠けることが許せないのでしょうか。
それとも、自分が我慢して働いているのに、相手だけが楽をしていることが許せないのでしょうか。
同じ人が休日に一人でのんびり過ごしていても、おそらく腹は立たないはずです。
だとすれば、怒りの原因は単なる「怠け」ではありません。
自分の負担、自分の評価、自分が受けるべき待遇。そうしたものが関係している可能性があります。
もちろん、職場の公平性を求めることは必要です。
しかし、問題の是正を望むことと、自分の不満を晴らしたいことは別です。
この違いを知らないままでは、改善を求めているつもりで、いつまでも相手への敵意を育てることになります。
さらに考えてみましょう。
人は、自分と同じ失敗をした相手に対しても、ずいぶん厳しくなることがあります。
自分が遅刻した時には事情がある。
相手が遅刻した時にはだらしない。
自分が約束を守れなかった時には仕方がない理由がある。
相手が守らなかった時には誠意がない。
こんな矛盾は、誰の心にも多少はあるのではないでしょうか。
自分の事情は内側から知っています。
しかし、他人の事情は外側からしか見えません。
そのため、自分には理由を与え、相手には人格の評価を与えやすくなる。
そして、そんな自分を疑うことなく怒ります。
怒りに理性が加わると必ず良くなる、というわけでもありません。
時には理性を使って、怒る理由をより巧妙に組み立ててしまうのです。
自分の正しさを証明することに、頭の良さを使ってはいないでしょうか。
ここは、一度考えてみる価値があります。
怒りを使わない人は、弱い人ではない
穏やかな人を見ると、時々こんな評価をする人がいます。
「あの人は怒らないから、なめられる」
しかし、本当にそうでしょうか。
相手に失礼なことをされても、必要な指摘はする。
不当な要求には、はっきり断る。
約束が守られなければ、改善を求める。
どうしても関係が成り立たなければ、静かに離れる。
その一つひとつに、怒りを混ぜない人がいたとしたら。
私は、むしろその人の方が強いと思います。
怒りに任せて言い返すのは、さほど難しくありません。
腹が立った時に、相手の人格を傷つけず、それでも必要なことは伝える。
こちらの方が、よほど難しい。
相手を許すかどうかと、相手の行為を容認するかどうかも別です。
信用できない人なら、信用しなくてもいい。
関わると危険な人なら、距離を置けばいい。
ただ、その人への怒りを毎日持ち歩く必要まではありません。
相手を嫌い続けることに、自分の時間を費やさなくてもよいのです。
以前の記事でも触れましたが、人間関係の悩みは、相手が目の前にいなくなってからも続くことがあります。
帰宅しても腹が立つ。
布団に入っても思い出す。
翌朝になっても、まだ頭の中で言い返している。
そこで、少し考えてみてほしいのです。
今、その人は何かしているでしょうか。
目の前で新たな問題を起こしているのでしょうか。
それとも、昨日の出来事を自分の心が何度も再生しているのでしょうか。
過去の出来事に対して必要な対処が残っているなら、それをすればいい。
しかし、すでに終わったことを繰り返し思い出して怒っているなら、その怒りは今、何の役に立っているのでしょう。
相手を正すこともできず、自分の行動も改善せず、ただ不快な時間だけが増えている。
それでも心は、怒りを手放そうとしません。
「だって相手が悪いんだから」
その理屈を握っている限り、怒りを続ける正当な理由が残るからです。
本当は、もう十分に怒ったのではないでしょうか。
怒りを感じた後に、何をするか
では、実際に腹が立った時、どうすればよいのでしょう。
特別な方法を探す前に、まず自分の判断を少し疑ってみることです。
今、自分は相手の問題を解決しようとしているのか。
それとも、相手に嫌な思いをさせたいのか。
相手の行動を正したいのか。
それとも、自分が正しいと認めさせたいのか。
この違いが分からないほど腹が立っているなら、その場で結論を出さなくてもいいでしょう。
少し時間を置く。
必要な事実を確認する。
自分の言い分だけではなく、相手の事情も調べる。
そして、何をすることが最も適切なのかを考える。
大げさな修行ではありません。
普段の生活でできる、ごく小さな判断です。
ただし、その小さな判断を積み重ねることには意味があります。
怒りに従って行動することを繰り返せば、怒りに従う習慣が育ちます。
一方、腹が立っても必要な行動を冷静に選ぶことを続ければ、そのような対応が少しずつ身についていきます。
怒りを一度も感じない人間になることを、急いで目標にする必要はありません。
まずは、怒りを感じた時に、その怒りを理由として誰かを傷つけることを減らしていく。
それだけでも、今までとは違う結果が生まれるはずです。
そして、もう一つ。
他人の怒りに対しても、同じ目を向けてみることです。
怒っている相手にも、何らかの不安や期待があるかもしれません。
自分の思い通りにならず、苦しんでいるのかもしれません。
もちろん、だからといって相手の怒りを受け止め続ける義務はありません。
ただ、「怒っている人」という固定した見方から少し離れ、その人の心にも原因と条件があると知る。
それだけで、相手を必要以上に敵視しなくて済む場合があります。
人は皆、自分の都合で怒り、自分の正しさを信じたがります。
自分も例外ではありません。
この平等な事実を認めることができれば、他人を裁く前に、自分の心へ目を向ける余地が生まれます。
怒らない人間になることを目指すより、まず怒りを自分の判断の主人にしないこと。
腹が立ってもいい。
しかし、その怒りが命じる通りに話し、行動する必要はありません。
今、何が起きているのか。
何を改める必要があるのか。
どのような言葉や行動が、望ましい結果につながるのか。
それを、怒りとは別に考える。
理性的に生きるとは、感情のない人間になることではないでしょう。
感情があっても、感情だけに決めさせない。
その積み重ねによって、心は少しずつ自由になっていくのだと思います。
怒りが生まれることは、誰にでもあります。
しかし、その怒りを正しいものとして握りしめ、相手を責め続ける必要が本当にあるのでしょうか。
あなたが守ろうとしているのは、正しさでしょうか。それとも、傷つけられた自分の価値でしょうか。
そして、その怒りを持ち続けることで、今のあなたは何を得ているのでしょう。
普段、当たり前のように抱いている怒りも、その原因を理性的に見つめていけば、これまでとは違った姿が見えてくるかもしれません。
もし今、誰かへの怒りや、どうしても納得できない出来事に心を乱されているなら、一度その原因を見つめ直してみませんか。
仏教の智慧と理性的な視点から、あなたの心が何を握りしめ、なぜ苦しみが続いているのか、一緒に紐解いていきましょう。
質問でも相談でも、お気軽にどうぞ。