「どうしても許せない人がいる」
そういう相談は珍しくありません。
裏切られた。
ひどいことを言われた。
一方的に傷つけられた。
こちらは悪くないのに、相手は謝りもしない。
思い出すたびに腹が立つ。もう関わりたくないのに、頭の中では何度もその人と話している。
「あの時、こう言い返せばよかった」
「どう考えても相手がおかしい」
「なぜ私がこんな思いをしなければならないのか」
現実ではとっくに会話が終わっているのに、心の中では裁判が続いています。
そして、その裁判ではほとんどの場合、自分が原告であり、検察官であり、裁判官でもあります。
証拠は何度も提出されます。
あの言葉。
あの態度。
あの時の表情。
以前にも似たことがあった。
判決も毎回ほぼ同じです。
「やっぱり相手が悪い」
それでも、不思議なことに心は晴れません。
相手を何度有罪にしても、こちらの苦しみは終わらない。
なぜでしょう。
もちろん、本当に相手の行為に問題がある場合はあります。
暴言を受けた。
約束を破られた。
裏切られた。
不当に扱われた。
それを「あなたの受け取り方の問題です」で済ませる必要はありません。
傷つけられた事実まで否定する必要もない。
ただ、ここから先にもう一つ見るものがあります。
相手の行為が終わった後も、なぜ怒りが続いているのか。
そこです。
たとえば、誰かに失礼なことを言われた。
その瞬間に不快になるのは自然でしょう。
ところが一週間たっても、一か月たっても、ふと思い出して腹が立つ。
その時、目の前にはもう相手はいません。
相手の言葉も、今この瞬間には存在していません。
それでも心の中では苦しみが続いている。
だとすれば、今の苦しみを作っている原因は、過去の相手の行為だけではありません。
こちら側にも、何か握っているものがあります。
「私はこんな扱いを受けるべきではない」
「相手は自分の非を認めるべきだ」
「きちんと謝るべきだ」
「私がどれだけ傷ついたか、理解するべきだ」
こうした思いです。
どれも、もっともらしく聞こえます。
実際、謝るべき場面もあるでしょう。
ただし問題は、相手が謝るかどうかは自分では決められないということです。
そこを自分の心の平穏の条件にしてしまうと、相手が謝らない限り、自分も苦しみ続けることになります。
これはかなり困った状態です。
嫌いな相手に、自分が穏やかになれるかどうかの決定権を渡しているからです。
「謝ってくれたら許せる」
一見すると当然に思えます。
でも裏返せば、
「あなたが謝るまで、私は平静になりません」
と宣言しているのと似ています。
相手がそのことを知らなくても、こちらだけがずっと拘束されます。
ここで言う「許す」は、相手の行為を正当化することではありません。
なかったことにすることでもありません。
もう一度仲良くする必要もないし、危険な相手なら離れた方がいい。
許すことと、再び信用することも別です。
では、何を手放すのでしょう。
私は、相手に対する判決を手放すというより、「相手は私の望む形で償わなければならない」という要求を手放すことに近いと思います。
あの人は間違ったことをした。
そこまでは事実として残していい。
しかし、
だから苦しんでほしい。
反省してほしい。
謝ってほしい。
自分と同じだけ痛い思いをしてほしい。
ここまで来ると、心はすでに相手の行為ではなく、自分の欲によって動き始めています。
少し厳しい話になります。
「許せない」と思っている時、私たちはしばしば傷ついた自尊心を守っています。
なぜ私が。
なぜこんな扱いを。
私を誰だと思っているのか。
言葉にはしなくても、そのようなものが心の底にあることがあります。
もちろん、自分を大切にすることは必要です。
ただ、自分を大切にすることと、「私はこのような扱いを絶対に受けてはならない存在だ」と考えることは同じではありません。
世界は、残念ながらこちらの尊厳を常に丁寧に扱ってくれるわけではありません。
理不尽な人もいます。
未熟な人もいます。
こちらの気持ちを想像できない人もいる。
自分だって、知らないうちに誰かを傷つけたことがあるはずです。
自分の一言を、何年も許せずにいる人がどこかにいる可能性だってあります。
私たちは自分が傷つけられた時の記憶には敏感ですが、自分が与えた傷については驚くほど鈍感です。
これもまた、人間の心の偏りでしょう。
だから「許せない」という感情が起きた時、その感情を悪者にする必要はありません。
怒っているなら、怒っている。
悔しいなら、悔しい。
それを無理に「慈悲の心で許しましょう」と上書きしても、たぶんうまくいきません。
むしろ、少し丁寧に中身を見てみる。
何がそんなに許せないのか。
行為そのものか。
謝らないことか。
軽く扱われたと感じたことか。
自分の正しさを認めてもらえないことか。
自分の価値を傷つけられたように感じることか。
怒りは一枚ではありません。
剥がしていくと、その下から別のものが出てきます。
悲しさだったり、怖さだったり、寂しさだったりする。
「もっと大切にしてほしかった」
そこに行き着くこともあります。
ここまで見えると、「許せない相手」の姿が少し変わります。
ただ憎いのではなく、自分の期待が破られた相手だったのだと分かる。
謝ってほしかった。
分かってほしかった。
大切にしてほしかった。
そして、その願いが叶わなかった。
だから苦しい。
そう考えると、怒りだけを眺めていた時より、ずいぶん話が具体的になります。
仏教が執着を見るのは、こういうところだと思います。
「怒るな」と命令するためではありません。
怒りの中で何を掴んでいるのかを見るためです。
正しさ。
自尊心。
期待。
相手への要求。
過去の出来事。
それらを握っている間、心はその出来事から離れられません。
では、全部手放せばいいのか。
そんなに簡単なら誰も苦労しません。
まずは、相手を許すことよりも、自分が何を要求しているのか知るだけでもいいと思います。
「ああ、自分は謝ってほしいんだな」
「自分の傷を認めてほしいんだな」
「相手に自分の正しさを認めさせたいんだな」
それが見えれば、次に考えられます。
それは自分で手に入れられるものなのか。
相手が謝らないなら、自分は一生ここにいるのか。
相手が反省しないなら、自分の人生も止めるのか。
たぶん、そこまで相手に預ける必要はありません。
距離を取る。
関係を終える。
必要なら伝える。
必要なら法や第三者の力を借りる。
やるべきことはやる。
そのうえで、相手の心の中まで変えようとすることはやめる。
これが、許すことの一つの形なのかもしれません。
「もうあなたを正しい人に変えようとはしない」
そう思えた時、妙に静かになることがあります。
相手が反省するかどうかは相手の課題。
自分は、自分の心がこれ以上荒れない原因を作る。
この方が現実的です。
許せない相手のことを考え続けている間、私たちはその人を手放していません。
嫌っているのに、握っています。
もう関わりたくないと言いながら、心の中では毎日会っています。
これもまた執着です。
だから「許す」という言葉が重ければ、こう考えてもいい。
もう、この人を心の中で裁き続ける仕事を辞める。
判決は十分出した。
これ以上、証拠を集めなくていい。
相手が悪かったなら、それでいい。
では、自分はこれからどう生きるのか。
その方が、ずっと大切です。
許せない心の正体は、怒りだけではありません。
傷つけられた自分。
認めてほしい自分。
謝ってほしい自分。
正しさを証明したい自分。
そのいくつもの思いが絡み合って、「許せない」という一つの言葉になっています。
だから、ほどくには少し時間がかかります。
でも、ほどくことはできます。
相手を変えるところからではなく、自分が何を掴んでいるのかを見るところから。
もし今、何度考えても許せない相手がいるなら、その人の悪いところをもう一度数える前に、自分の中に残っている要求を一度見てみてください。
本当に欲しかったものは何だったのか。
そこが見えてくると、怒りの奥にあったものも少しずつ言葉になります。
一人ではうまく整理できない時は、相談してください。
相手を無理に許すためではなく、その人のために使い続けている自分の心を、自分のところへ戻すために、一緒に見ていきます。