人は、何か問題が起きると、すぐに犯人を探します。
誰が悪かったのか。
どちらが間違っているのか。
誰に責任があるのか。
職場でトラブルが起きてもそうです。家庭で揉めてもそうです。友人と喧嘩をしても、恋人と関係が悪くなっても、まず頭に浮かぶのは「相手が悪い」「いや、自分にも悪いところがあった」という話です。
善いか悪いか。
私たちは驚くほど、この二つで世界を整理しようとします。
もちろん、善悪の判断が必要な場面はあります。
暴力を振るう。
人を騙す。
約束を意図的に破る。
他人の権利を侵害する。
社会生活を送るうえで、何でも「仕方ない」で済ませるわけにはいきません。
けれど、悩みを解こうとする時には、この善悪という物差しが案外邪魔になります。
なぜなら、
「誰が悪いか」
が分かったところで、
「なぜこうなったか」
が分かるとは限らないからです。
たとえば、夫婦喧嘩を考えてみます。
夫が帰宅してもほとんど話をしない。
妻はそれを「自分を大切にしていない」と感じる。
不満がたまり、ある日きつい言い方をする。
夫は「仕事で疲れているのに責められた」と腹を立て、さらに口を閉ざす。
さて、どちらが悪いのでしょう。
妻でしょうか。
夫でしょうか。
たぶん、どちらにも言い分があります。
ここで「夫が悪い」「妻も言い方が悪い」と結論を出しても、翌日から関係が良くなるわけではありません。
見るべきは、別のところです。
疲れて会話が減った。
会話が減ったことで不安が生まれた。
不安が怒りに変わった。
怒りをぶつけられたことで防御が強くなった。
防御がさらに会話を減らした。
こうして見ると、そこには一本の流れがあります。
疲労。
不安。
期待。
言葉。
反応。
さらに次の反応。
原因が次の原因を作り、結果がまた新しい原因になる。
誰か一人が悪人だから、こうなったわけではない。
この見方が、因果です。
仏教で語られる因果という言葉は、何か悪いことをしたら罰が当たる、という程度の話ではありません。
原因があれば、それに応じた結果が生じる。
ある条件がそろえば、ある現象が起こる。
それだけです。
そして、この見方には少し厳しいところがあります。
「相手が悪い」で終われないのです。
上司の態度が悪かった。
それはそうかもしれません。
では、自分はその時どう反応したのか。
必要なことを伝えたのか。
黙って我慢し続けたのか。
相手に伝わらない形で不満を示したのか。
別の人にだけ愚痴を言い続けたのか。
「どうせ分かってもらえない」と最初から諦めたのか。
相手の原因と、自分の原因は別々に存在します。
相手が悪いことと、自分の行動に改善点があることは、同時に成立します。
ここを混同すると、人は動けなくなります。
「私は被害者なのだから、私が変わる必要はない」
そう思いたくなる気持ちは分かります。
でも、その考えが自分を救うでしょうか。
相手が一100%悪かったとしても、自分の苦しみが自動的に消えるわけではありません。
むしろ、
「私は悪くないのに」
という思いが強くなるほど、怒りは長引くことがあります。
原因を見るというのは、被害を受けた人に責任を押しつけることではありません。
誰が悪いかと、これから何を変えられるかを分けることです。
これはかなり大切です。
たとえば、誰かにひどいことを言われた。
相手の発言に問題があった。
それは事実として見る。
同時に、
なぜその言葉を何日も何週間も頭の中で繰り返しているのか。
なぜその一言が、自分の価値そのものにまで入り込んでいるのか。
なぜ「そんなふうに言われる自分ではない」と、今も戦い続けているのか。
そこは、自分の側の原因として見る。
相手の過失をなかったことにする必要はありません。
でも、相手の過失だけを見続けても、自分の心は相手に握られたままです。
少し嫌な言い方をすれば、相手が家に帰って晩ご飯を食べている間も、こちらだけが頭の中で裁判を続けている。
「許せない」
「普通そんなこと言う?」
「私なら絶対しない」
何度も証拠を提出し、何度も相手を有罪にする。
そして、何度有罪判決を出しても、こちらの気持ちは晴れない。
不思議なものです。
それなら、見る場所を変えた方がいい。
相手が悪いかどうかではなく、
この苦しみは、今、何を原因として続いているのか。
そこです。
人間関係の問題は、一人で作っているとは限りません。
多くの場合、互いの条件が絡み合っています。
こちらには「分かってほしい」という期待がある。
向こうには「責められたくない」という恐れがある。
こちらが強く言う。
向こうが逃げる。
向こうが逃げる。
こちらがもっと強く追う。
どちらも、自分の行動には理由があると思っています。
どちらも、自分を守っています。
そして結果として、二人で関係を悪くする原因を作り続ける。
ここで必要なのは、
「どっちが悪い」
ではなく、
「この循環を作っているものは何か」
です。
善悪で見ると、勝ち負けになります。
因果で見ると、構造になります。
構造で見れば、変えられるところが見えてきます。
自分の言い方を変える。
距離を取る。
期待を減らす。
相手に求めるものを言葉にする。
できないことは諦める。
必要なら関係そのものを見直す。
こうして、ようやく現実的な選択肢が出てきます。
「善悪で見ない」というと、何でも許してしまう話に聞こえるかもしれません。
そうではありません。
悪い行為には、悪い結果が出る原因があります。
暴力を振るえば、人間関係は壊れます。
嘘を重ねれば、信用を失います。
怒りに任せて言葉をぶつければ、相手も防御します。
人の話を聞かなければ、人は話さなくなります。
だからこそ、因果を見るのです。
「悪い人だから罰せられるべき」
ではなく、
「この行動は、この結果を生む」
と見る。
すると、自分に対しても同じ目を向けられます。
私は正しい。
だからこの言い方でいい。
ではありません。
正しいことを言っていたとしても、その言い方が相手を閉ざす原因になることはあります。
私は我慢している。
だからいつか分かってもらえる。
これも分かりません。
我慢を続けることが、周囲に「この状態で問題ない」と学習させる原因になることもあります。
私は優しくしている。
だから大切にされるはず。
それも結果までは保証しません。
相手がその優しさを当然だと受け取る可能性もあります。
つまり、良い心で行ったことが、必ず望む結果になるわけではない。
ここでも必要なのは、善人か悪人かではなく、何が何を生んでいるのかを見る目です。
この見方ができるようになると、自分を責める必要も減ってきます。
失敗した。
では、自分はダメな人間なのか。
違います。
この判断が、この結果を生んだ。
準備不足が、この失敗につながった。
疲れた状態で判断したから、こうなった。
知識がなかったから、選択を誤った。
ならば、原因を変えればいい。
人格裁判を始める必要はありません。
反対に、成功した時も同じです。
「私は優れた人間だ」
と、自分そのものを持ち上げる必要はありません。
条件が整った。
行動が適切だった。
周囲の助けがあった。
運よく機会が重なった。
それらによって結果が出た。
そう見れば、成功しても傲慢になりにくい。
失敗しても、自分を全部否定しなくて済む。
因果で見るというのは、冷たい考えではありません。
むしろ、人を「良い人」「悪い人」という狭い箱から出す見方です。
人は条件によって変わります。
余裕がある時は優しい人も、追い詰められれば荒れます。
普段は誠実な人も、強い恐怖の中では嘘をつくことがあります。
自分だって同じです。
いつでも立派な自分がいるわけではない。
環境が変われば、感情も行動も変わります。
だから、人を固定しない。
「あの人は最低な人だ」
で終わらせず、
「なぜ、この人はこう動いたのだろう」
と一度見る。
だからといって、危険な人に近づく必要はありません。
理解することと、付き合い続けることは別です。
原因が分かったからといって、許さなければならないわけでもありません。
必要なら離れる。
しかし、
憎みながら離れるのか。
原因を見たうえで静かに離れるのか。
この二つでは、残る心が違います。
そして、因果を見る時に忘れてはいけないことがあります。
すべての原因が、自分に分かるわけではありません。
「これが原因だ」と簡単に断定することもまた、思い込みです。
人の心も、出来事も、いくつもの条件が重なっています。
だから因果を見るとは、何でも説明し切ることではありません。
分からないものを、分からないままにしておくことも含みます。
ただ、
自分に見える範囲で原因を探し、
変えられる原因は変え、
変えられないものは受け入れる。
それで十分です。
何か問題が起きた時、私たちはすぐに腹を立てます。
「あいつが悪い」
「私は悪くない」
その気持ちが出ること自体は自然です。
でも、その場所に長く居続ける必要はありません。
少し落ち着いたら、次の問いに移る。
何がこの結果を生んだのだろう。
自分の側には何があったのだろう。
相手の側には何があったのだろう。
今、この結果を長引かせている原因は何だろう。
そして、自分が今日変えられる原因はどこだろう。
犯人探しではなく、原因探しへ。
そこに変わった瞬間、悩みは少し扱いやすくなります。
善悪を手放せとは言いません。
ただ、善悪だけでは人の心も、人生も、あまりに粗くしか見えません。
自分を正当化するための「正しい」「間違っている」を少し横に置いて、原因と結果を見る。
それだけで、人間関係の景色が変わることがあります。
そして何より、自分が次に何をすればいいのかが見えてきます。
もし今、
「あの人が許せない」
「どう考えても相手が悪い」
「自分ばかり損をしている」
そんな悩みの中にいるなら、その善悪の判定を一度脇に置いてみてもいいかもしれません。
どんな原因が積み重なって、今の結果になったのか。
そこから見ると、相手の粗ではなく、自分が動かせるものが見えてくることがあります。
困った時は、どうぞご相談ください。
誰が悪いかを決めるためではなく、
何が苦しみを生んでいるのかを、一緒に見つけていきます。