「分かってほしい」を手放す 分かり合えないことを認めたところから、人間関係は少し楽になる

「分かってほしい」を手放す 分かり合えないことを認めたところから、人間関係は少し楽になる

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コラム
「分かってほしい」

人間関係の悩みをたどっていくと、最後にこの言葉へ行き着くことがよくあります。

あの人に、自分がどれだけ傷ついたか分かってほしい。  
家族に、どれだけ頑張っているか分かってほしい。  
職場の人に、自分なりに考えてやっていることを分かってほしい。  
大切な人だからこそ、言わなくても気持ちくらい察してほしい。

どれも無茶な願いには見えません。

むしろ、とても人間らしい。

ところが、この「分かってほしい」が強くなりすぎると、かなり厄介です。

相手が分かってくれない。

それだけで、最初の問題とは別の苦しみが始まるからです。

たとえば仕事で失敗して落ち込んでいる時、家に帰ってその話をしたとします。

こちらはただ、「大変だったね」と言ってほしかった。

ところが相手は、

「でも確認不足だったんじゃない?」

と言ってくる。

腹が立つ。

そんなことは自分でも分かっている。  
今それを言ってほしいわけじゃない。

そこで仕事の失敗よりも、

「この人は私の気持ちを全然分かってくれない」

ということの方が苦しくなってくる。

不思議なものです。

会社で起きた問題だったはずなのに、家に帰って第二試合が始まっています。

しかも、この試合は長引きます。

「あの時もそうだった」  
「前からこの人は人の気持ちが分からない」  
「私はいつも話を聞いているのに」

過去の資料まで持ち出されます。

こうなると、目の前の一言だけの話ではありません。

「私はこれだけあなたを理解している。だからあなたも私を理解するべきだ」

という取引が始まっています。

ここを少し冷静に見てみたいのです。

あなたは、本当に相手のことを分かっているでしょうか。

意地悪な質問ではありません。

たとえば家族と何十年一緒に暮らしていても、その人が今日職場で何を考えたかは、話してもらわなければ分かりません。

友人が笑っていても、本当に楽しいのか、気を遣って笑っているのかまでは分からない。

「大丈夫」と言われても、本当に大丈夫なのかもしれないし、説明するのが面倒なだけかもしれない。

人の心は、外から丸見えではありません。

私たちは、相手の言葉や表情や過去の行動から、

「たぶんこうだろう」

と推測しているだけです。

それなのに、自分については妙に強気になります。

「これくらい分かるでしょう」

と思う。

なぜでしょう。

自分の気持ちは、自分にはあまりにも明らかだからです。

つらい。  
悲しい。  
頑張っている。  
我慢している。

自分の中では、これらが四六時中見えています。

だから、それが相手にも同じくらい見えているような気がしてしまう。

でも、相手から見えているのはその一部だけです。

こちらが十時間考えて出した言葉でも、相手が受け取るのは数秒です。

こちらには百の事情があっても、相手が知っているのは十かもしれません。

ここには、かなり大きな差があります。

そして、もう一つ厄介なのが、

「分かる」という言葉そのものです。

何をもって「分かった」とするのでしょう。

自分と同じ意見になれば、分かってくれたのでしょうか。

自分に謝れば、分かってくれたのでしょうか。

「つらかったね」と言えば十分でしょうか。

相手がこちらの事情を全部理解したうえで、

「それでもあなたの考えには賛成できない」

と言ったら、それは「分かっていない」のでしょうか。

ここは大事です。

理解と同意は別です。

あなたの事情を理解しても、反対する人はいます。

あなたが傷ついたことを理解しても、自分は悪くないと思う人もいます。

あなたが一生懸命だったことを理解しても、結果については厳しく評価する人もいます。

ところが私たちは時々、

「本当に分かってくれたなら、私に賛成するはずだ」

と思ってしまう。

それは理解を求めているようで、実際には同意を求めています。

さらに進むと、

「私の感じ方を正しいと認めてほしい」

という願いになります。

ここまで来ると、「分かってほしい」はかなり重くなります。

相手に自分の心を理解してもらうだけでは足りない。

自分の気持ちを肯定し、自分の見方を正しいと認め、自分が望む反応まで返してほしい。

それが叶わないから腹が立つ。

でも、それは本当に相手の役目でしょうか。

少し耳の痛いところです。

自分にも、理解できない人がいるはずです。

どうしてそんなことで怒るのか分からない。  
なぜそんな生き方をするのか分からない。  
なぜそんな人を好きになるのか分からない。


相手から見れば、その時のあなたこそ、

「どうして分かってくれないの」

という相手です。

自分には他人を理解できない自由がある。

ところが他人には、自分を理解しない自由を認めたくない。

ここに、いつもの「私」が出てきます。

私は分かってもらう側。

私の痛みは理解されるべき。

私の事情は特別に考慮されるべき。

しかし、相手にも同じように「私」があります。

相手にも、自分の事情があります。  
自分の見え方があります。  
自分の痛みがあります。

二つの「私」が、

「まずそっちが私を分かれ」

と言い合っている。

これで関係が楽になるのは、なかなか難しいでしょう。

では、何も話さず、分かり合うことを諦めればいいのか。

そうではありません。

これまでの記事でも何度か触れてきたように、手放すことと、投げ出すことは違います。

伝えればいいのです。

むしろ、伝えた方がいい。

ただし、

「分かってくれるはず」

ではなく、

「分かってもらえない可能性もあるから、できるだけ丁寧に伝える」

に変える。

「言わなくても分かるでしょう」から、

「言わなければ分からないかもしれない」へ。

「どうして理解してくれないの」から、

「どこまで伝わっているのだろう」へ。

それだけで、相手への責め方が変わります。

人は自分の頭の中を直接渡すことはできません。

言葉にするしかありません。

しかも、その言葉さえ、相手の経験や価値観を通して受け取られます。

だから誤解は起こります。

それは異常事態ではありません。

むしろ、普通です。

完全に分かり合えることの方が、かなり幸運なのかもしれません。

そう考えると、人間関係に少し余白ができます。

分かってもらえたらありがたい。

でも、分かってもらえないからといって、すぐに相手を敵にしなくていい。

相手が理解できないなら、もう少し伝えてみる。

それでも難しいなら、

「ここは違うんだな」

で置いておく。

その選択肢が生まれます。

仏教では、自分と他人が見ている世界を、最初から完全に同じものだとは考えません。

同じ出来事でも、感じ方は違う。

同じ言葉でも、ある人には冗談になり、別の人には傷になる。

その違いをなくそうとすると、争いになります。

「あなただって普通こう思うでしょう」

この「普通」が危ない。

普通とは、かなりの割合で、

「私はそう思う」

という意味で使われています。

人間関係で苦しくなった時、この「普通」を一度疑ってみると面白いです。

普通は分かってくれる。

普通は謝る。

普通は心配する。

普通はこんな言い方をしない。

では、その普通は誰が決めたのでしょう。

多くの場合、自分です。

自分で作った基準に相手を立たせ、合格しなかったことに腹を立てている。

もちろん、社会的な常識や最低限の配慮はあります。

何でも「人それぞれ」で済ませればいいという話ではありません。

ただ、自分の期待まで社会の常識に昇格させていないかは、時々確認した方がいい。

「分かってほしい」という気持ちは、なくならないと思います。

なくす必要もありません。

分かってもらえるとうれしい。

それでいい。

問題は、

分かってもらえなければ私は苦しみ続ける

というところまで、相手に自分の心を預けてしまうことです。

そこは返してもらった方がいい。

自分の苦しさは、自分で知っている。

自分が頑張ったことも、自分は知っている。

相手に伝えることはできる。

でも、相手がどこまで理解するかは相手に任せる。

そして同時に、自分も相手を完全には理解できていないと知っておく。

このくらいが、たぶんちょうどいい。

人と人が完全に分かり合えないという話は、少し寂しく聞こえます。

でも私は、むしろ逆だと思います。

完全には分からない。

だから聞く。

分からないから、勝手に決めつけない。

分からないから、

「あなたはどう感じたの?」

と尋ねる。

最初から全部分かっていると思っている人より、その方がずっと相手を見ています。

「分かってほしい」を少し手放した時、代わりに出てくるのは無関心ではありません。

知ろうとする姿勢です。

それは、自分にも向けられます。

私は、なぜそこまで分かってほしいのだろう。

何を認めてほしいのだろう。

相手が理解してくれたら、自分の何が満たされるのだろう。

寂しさかもしれない。

自信のなさかもしれない。

「自分は間違っていない」と誰かに保証してほしいのかもしれない。

そこまで見えてくると、問題はもう「相手が分かってくれない」だけではなくなります。

自分の心のどこが、相手の理解を必要としているのか。

そこを扱えるようになります。

人間関係は、一気に解決しなくてもいいと思います。

今日ひとつ、

「どうして分かってくれないの」

と言いそうになった時に、

「ちゃんと伝えただろうか」

と考える。

それだけでも違います。

そして伝えても分かり合えないなら、その違いを一度そのまま置いてみる。

相手を変えるより先に、自分の握っている「理解されるべき」を少し緩めてみる。

そこに、意外な静けさがあります。

もし今、

「何度話しても分かってもらえない」

という相手がいるなら、相談してみてください。

相手を説得する方法を考えるだけではなく、あなたが本当に分かってほしいものは何なのか。

そして、それを相手に求め続けることが、本当に必要なのか。

そこから一緒に見ていきます。

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