責める前に、何がこの結果を生んだのか
人とぶつかったとき、私たちはまず「どちらが悪いのか」を考えます。
あんな言い方をした相手が悪い。
いや、自分にもよくなかったところがある。
頭の中で何度も出来事を再生しながら、相手を責めたり、自分を責めたりする。
けれど、長い時間をかけて「どちらが悪いか」を考えたとして、その関係は少しでもよくなったでしょうか。
もちろん、悪いことを悪いと言ってはいけない、という話ではありません。
暴力や、相手を傷つける言動には、きちんと責任を問わなければならない場合があります。自分を守るために、その場から離れることも必要です。
ただ、人間関係の悩みを解こうとするとき、善悪の判断だけでは見えてこないものがあります。
それは、何が積み重なって、今の状態になったのかということです。
正しいのに、うまくいかない
たとえば、職場で何度も同じミスをする人がいたとします。
あなたは困って、相手に注意しました。
伝えた内容は間違っていません。周囲にも影響が出ているのだから、指摘する必要もあったでしょう。
ところが、相手は次第にあなたを避けるようになりました。
質問も相談も減り、かえってミスが増えていく。
「こちらは正しいことを言っているのに、なぜだろう」
そう思うかもしれません。
ここで「相手が未熟だからだ」と結論を出すのは簡単です。実際、相手に改善すべき点はあるのでしょう。
でも、それだけで終わると、同じことが続くかもしれません。
相手は、何を理解できていなかったのか。
質問しにくい空気はなかったか。
注意する場所やタイミングは適切だったか。
仕事の量は、その人が一人で抱えられるものだったのか。
一つひとつを見ていくと、誰かの性格だけでは説明できないものが見えてきます。
正しい指摘をしたことと、その伝え方が相手を萎縮させたことは、同時に起こり得ます。
自分が間違っていた、と決めつける必要はありません。
ただ、「正しかったのだから、それでよい」と考えると、次に変えられることを見落とします。
因果は、罰の話ではない
仏教には、物事を原因と条件のつながりから見る視点があります。
「因果」という言葉を聞くと、悪いことをすれば罰が当たる、という話を思い浮かべる人もいるかもしれません。
けれど、ここで考えたいのは、もっと身近なことです。
人の言葉があり、それを受け取った人の気持ちがあり、そこから次の言葉や行動が生まれる。
そのときの体調や、これまでの経験、その場の状況も関わってくる。
何か一つだけで、すべてが決まるわけではありません。
たとえば、強い口調で注意された人が黙り込んだとします。
注意した側は、「反省していない」と感じるかもしれません。
でも相手は、反省していないのではなく、怖くて何を言えばいいか分からなくなっているのかもしれない。
もちろん、本当のところは本人に聞かなければ分かりません。
大切なのは、すぐに一つの答えに決めてしまわないことです。
「この人はこういう人だ」と決めつけた瞬間に、私たちは、それ以外の原因を見るのをやめてしまいます。
相手を理解することと、我慢することは違う
因果で見るというと、「相手にも事情があるのだから許しましょう」と聞こえるかもしれません。
そうではありません。
相手がなぜそのような言動をしたのかを考えることと、その言動を受け入れることは別です。
疲れていたからといって、人を傷つけてよいわけではない。
つらい経験があったからといって、相手の権利を奪ってよいわけでもない。
事情を知れば、その人の行動が理解できることはあります。
それでも、距離を取る必要があることはあります。誰かに助けを求めたり、正式に問題を伝えたりする必要があることもあります。
そして、傷つけられた側が、その出来事の責任まで背負う必要はありません。
原因を考えるのは、自分を責めるためではなく、これから自分を守り、状況に対処するためです。
自分を責める代わりに
この見方は、他人だけでなく、自分にも向けられます。
何かに失敗したとき、
「私は駄目な人間だ」
と考えてしまうことがあります。
けれど、「駄目な人間だから失敗した」という説明では、次に何をすればよいのか分かりません。
準備する時間が足りなかったのかもしれない。
確認する方法が曖昧だったのかもしれない。
疲れがたまって、普段なら気づけることを見落としたのかもしれない。
あるいは、一人では抱えきれない仕事だったのかもしれません。
原因が分かれば、次の準備を変えたり、確認を頼んだり、仕事の進め方を相談したりできます。
それでも、すべての原因が分かるわけではありません。自分の力だけでは変えられない条件もあります。
分からないことを、無理に一つの答えにしなくてよいのです。
「あの人が悪い」
「自分が駄目だ」
そう考えてしまうときもあるでしょう。
その気持ちを、すぐに消す必要はありません。
少し落ち着いたら、その次に、もう一つ問いを置いてみます。
何が重なって、今の結果になったのだろう。
その中で、自分にできることは何だろう。
伝え方を変えることかもしれません。
誰かに相談することかもしれません。
あるいは、これ以上傷つかないように、その場所から離れることかもしれません。
善悪を判断することは、時に必要です。
けれど、その判断だけで立ち止まらず、原因と条件を見ていくと、次に取れる行動が少しずつ見えてきます。
今あなたが抱えている悩みも、「誰が悪いか」だけでは整理できないものかもしれません。
起きたこと、相手の言動、自分の気持ち、変えられること。
一人で考えていると混ざり合ってしまうものを、仏教の視点から一緒に整理していきます。