私と私の見解 その意見は、本当に「私のもの」なのか

私と私の見解 その意見は、本当に「私のもの」なのか

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コラム
人間関係の中で、私たちは日々、多くの悩みを抱えます。

誰かに分かってもらえない。
自分の考えを否定された。
好きなものを理解してもらえない。
大切にしている価値観を軽く扱われた。
こちらは良かれと思っているのに、相手にはまったく伝わらない。

そうした時、心には寂しさ、怒り、不安、悔しさが起こります。

「なぜ分かってくれないのか」
「どうしてそんな考え方をするのか」
「私の方が正しいはずだ」
「相手の見方は間違っている」

人は、意見が食い違うと不安になります。
同じものを見ているはずなのに、まったく違う見解が出てくると、時には相手を負かしたくなります。

自分が良いと思うものを、相手は良いと思わない。
自分が好きなものを、相手は理解しない。
自分が正しいと思うことを、相手は否定する。

その瞬間、私たちはまるで「自分自身」を否定されたように感じます。

しかし、ここで一度考えてみたいのです。

そもそも「私の見解」とは何でしょうか。

「私の意見」
「私の好み」
「私の価値観」
「私の考え方」
「私らしさ」

私たちはそれらを、自分の内側から自然に湧き出たもののように感じています。

しかし、本当にそうでしょうか。

今の自分の考え方は、これまで出会った人たちの影響を受けています。
親から受けたしつけ。
学校で教わったこと。
友人との会話。
読んできた本。
見てきたテレビや動画。
仕事で身につけた常識。
周囲から褒められた経験。
否定された記憶。
憧れた人物。
反発した相手。

そうしたものが重なって、今の「私の見解」は作られています。

話し方もそうです。
振る舞いもそうです。
ものの考え方もそうです。
好き嫌いでさえ、完全に自分一人でゼロから作ったものではありません。

私たちは、周りから与えられた材料で、自分というものを組み立てています。

それなのに、いつの間にかこう思います。

「これは私の意見だ」
「これは私の価値観だ」
「これが私らしさだ」
「だから否定されたくない」

けれど、その「私のもの」は、本当に私だけのものなのでしょうか。

さらに言えば、その見解は固定されていません。

状況が変われば、意見は変わります。
年齢が変われば、好みも変わります。
立場が変われば、考え方も変わります。
人間関係が変われば、言葉の使い方も変わります。
損得が変われば、判断も変わります。

昨日まで強く信じていたことを、数年後には笑っていることもあります。
昔は嫌いだったものを、今は大切にしていることもあります。
若い頃には理解できなかった言葉が、年齢を重ねてから深く刺さることもあります。

もし、ずっと自分を観察している者がいたとすれば、きっと驚くはずです。

この人は、昨日と今日で見方が違う。
相手によって言うことが変わる。
立場が変われば正義も変わる。
都合が変われば主張も変わる。
好みも、言葉も、態度も、少しずつ入れ替わっている。

それほど変化しているにもかかわらず、私たちは「私の見解」を抱きしめて離そうとしません。

そして、それを否定されると傷つきます。

これは不思議なことです。

借り物でできていて、条件によって変わり続けるものを、まるで絶対の自分そのものであるかのように守ろうとする。

ここに、人間の苦しみの一つがあります。

仏教の視点では、私たちが苦しむ原因の一つに「執着」があります。

執着とは、何かを大切にすることではありません。
それが自分そのものだと思い込み、手放せなくなることです。

意見も、見解も、好みも、本来はその時々の条件によって生じたものです。

けれど、それを「私の正しさ」として握りしめると、他人との違いが苦しみになります。

相手が違う意見を持っているだけで、自分が攻撃されたように感じる。
相手が賛同しないだけで、自分を軽く見られたように感じる。
相手が自分の好きなものを否定すると、自分の存在まで否定されたように感じる。

本来なら、ただ見解が違うだけです。

しかし、そこに「私」が強く入り込むと、意見の違いが争いになります。

ここで思い出したい言葉があります。

金子みすゞさんの詩にある、
「みんなちがって、みんないい」
という言葉です。

この言葉を好む人は多いと思います。

とても優しく、あたたかく響く言葉です。

しかし、この言葉を「自分の正当性を守るため」に使うと、かえって苦しみを増やすことがあります。

みんな違うのだから、私だってこれでいい。
私の考え方も認められるべきだ。
私の好きなものも否定されるべきではない。
私の生き方も尊重されるべきだ。

たしかに、それは一面では大切なことです。

けれど、そこで止まると、「私を認めてほしい」という執着が強くなる場合があります。

仏教的に読むなら、この言葉はもっと厳しいものになります。

みんな違う。
だから、あなたと相手が違うのは当たり前である。

あなたの見解に賛同する人もいれば、反対する人もいる。
あなたが好きなものを、好きではない人もいる。
あなたが正しいと思うことを、正しいと思わない人もいる。
あなたが大切にしているものを、相手は大切にしないかもしれない。

それは特別な悲劇ではありません。

当たり前のことです。

「みんなちがって、みんないい」という言葉は、自己肯定感を高めるためだけに使うものではないと思います。

むしろ、自分と他人の肯定感の差をなくすために使うべき言葉です。

私も違う。
相手も違う。

私の見解も条件によって生じている。
相手の見解も条件によって生じている。

私の意見も変化する。
相手の意見も変化する。

私が相手を否定することもある。
相手が私を否定することもある。

私もまた、自分の好みや都合によって、人の意見に賛同したり反対したりを繰り返している。

そう考えると、「私の見解だけは特別に尊重されるべきだ」という思いは、恐ろしほど自分都合なものに見えてきます。

私たちは、自分の意見を持つこと自体をやめる必要はありません。

考えることは大切です。
好き嫌いがあることも自然です。
価値観を持つことも必要です。
時には、はっきり主張しなければならないこともあります。

ただ、それを「絶対の私」と結びつけすぎないことです。

私の意見は、今の条件の中で生じた一つの見方にすぎない。
相手の意見も、相手の条件の中で生じた一つの見方にすぎない。

そう見れば、相手との違いにすぐ怒らなくて済みます。

反対された時も、少し余白が生まれます。

「この人は、そう見ているのか」
「私は、こう見ているのか」
「なぜ私はこれを否定されると苦しいのか」
「この意見に、私は何を重ねているのか」
「自分の正しさを守りたいのか、それとも事実を見たいのか」

こうした問いが立てられます。

理性的に見るとは、自分の意見を捨てることではありません。
相手に合わせることでもありません。

自分の見解を、絶対視しないことです。

意見は持つ。
しかし、握りしめない。

好き嫌いはある。
しかし、それを世界の基準にしない。

主張はする。
しかし、否定された時に自分そのものが壊れたように感じない。

ここに、苦しみを薄める道があります。

私たちは、自分というものに執着するほど、人の違いに苦しみます。

なぜ分かってくれないのか。
なぜ認めてくれないのか。
なぜ同じように感じないのか。
なぜ私の考えを否定するのか。

しかし、そもそも同じでないのです。

同じものを見ても、違うように見える。
同じ言葉を聞いても、違う意味を受け取る。
同じ出来事を経験しても、違う結論を持つ。

それが人間です。

そして、その違いは、完全に自分で作ったものではありません。

育ち、環境、記憶、経験、欲、不安、立場、損得。
それらが組み合わさって、見解が生じています。

だとすれば、相手の違いに腹を立てる前に、自分の見解もまた条件によって作られたものであると見た方がよい。

そこから、自と他の境目が少しゆるみます。

自分だけが正しいのではない。
相手だけが間違っているのでもない。

私も条件に動かされている。
相手も条件に動かされている。

私も自分の見方に縛られている。
相手もまた、自分の見方に縛られている。

このように見ると、私たちは少し先の景色に出ます。

「みんな違う」からさらに進んで、
「みんな同じように苦しんでいる」
という場所です。

見解が違う者同士。
好みが違う者同士。
正しさが違う者同士。
それでも皆、自分の見方に縛られ、怒り、不安になり、認められたくて、否定されることを恐れている。

つまり、全員がそれぞれの頭に火がついて、のたうち回っているような存在です。

そう見えた時、相手を打ち負かすことに、どれほどの意味があるのでしょうか。

自分の正しさを証明しても、心は本当に静かになるのでしょうか。

相手を論破しても、自分の不安は消えるのでしょうか。

自分の見解を守り抜いても、苦しみから離れられるのでしょうか。

おそらく、そうではありません。

必要なのは、勝つことではなく、見抜くことです。

私は今、何を守ろうとしているのか。
この意見は、本当に私そのものなのか。
なぜ反対されると苦しいのか。
自分の見方を絶対にしていないか。
相手もまた、自分の見方に縛られている存在ではないか。

この問いが、心を少しやわらかくし、慈悲の心を育みます。

悩みの多くは、出来事そのものよりも、「私の見方」によって濃くなります。

私の見解。
私の正しさ。
私の好み。
私の価値観。
私の傷つき。

そこに強くしがみつくほど、人との違いが苦しみになります。

反対に、それらがすべて条件によって生じ、変化していくものだと見えた時、違いは少し軽くなります。

自分の見解を手放すとは、何も考えない人間になることではありません。

意見を持ちながら、その意見に支配されないことです。

自分を持ちながら、自分に縛られないことです。

違いを認めながら、自分だけを特別扱いしないことです。

人間関係で悩んでいる時、私たちは相手の言葉や態度ばかりを見ています。

しかし、その前に見るべきものがあります。

自分は、何を「私のもの」として守っているのか。
その見解は、どこから来たのか。
本当に変わらないものなのか。
その見方を握りしめることで、どんな苦しみが生まれているのか。

そこを見つめることで、悩みは少し違って見えてきます。

もし今、人間関係の中で、分かってもらえない苦しさや、意見の食い違い、否定された怒りを抱えているなら、一度その悩みを言葉にしてみてください。

あなたが守ろうとしている「私の見解」は何なのか。
それは本当に守るべきものなのか。
それとも、苦しみを生んでいる執着なのか。

仏教の智慧と理性的な問いかけを使って、一緒に見つめていきましょう。

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