「自分のことが嫌いです」
「自信がありません」
「自分には価値がないと思います」
そう言う人がいます。
けれど、不思議なことがあります。
自分には価値がないと言いながら、その自分を必死に守ろうとするのです。
失敗を恐れて挑戦しない。
変化を嫌い、今の状態に固執する。
人の優しさや愛情が差し出されても、素直に受け取れない。
幸福のきっかけが目の前に現れても、どこかで疑い、拒んでしまう。
「どうせ自分なんて」と言いながら、
その「どうせ自分なんて」という自分像だけは、頑なに手放そうとしない。
これは矛盾しているように見えます。
価値がないと思っているなら、なぜそこまで守るのでしょうか。
嫌いな自分なら、なぜ変わることを恐れるのでしょうか。
不要なものなら、なぜ手放せないのでしょうか。
少し厳しい言い方をすれば、そこには強い自己愛があります。
ここで言う自己愛とは、自分を大切にする健全な愛情ではありません。
「自分」という存在を絶対視している心です。
自分の傷。
自分の不安。
自分の過去。
自分の価値。
自分の劣等感。
自分の物語。
それらを中心にして世界を見ている状態です。
自分が嫌いだと言いながら、本当は誰よりも自分に執着している。
自分に価値がないと言いながら、その価値の有無に心を支配されている。
満たされないと言いながら、その満たされなさに慣れ、そこに落ち着いている。
人は、幸福よりも慣れた苦しみを選ぶことがあります。
なぜなら、慣れた苦しみは予測できるからです。
変化には不安があります。
挑戦には失敗があります。
愛情には失う怖さがあります。
幸福には、それが壊れる恐れがあります。
だから、今の苦しみの中に居続けようとする。
「自分はダメだ」
「どうせ変われない」
「期待しても無駄だ」
「人は信用できない」
そう思っていれば、傷つかずに済むような気がする。
挑戦しなくていい理由ができる。
変化しない自分を正当化できる。
誰かの優しさを拒んでも、自分を守った気になれる。
しかし、それは本当に自分を守っているのでしょうか。
むしろ、守っているのは「自分」ではなく、心が作り上げた自分像です。
「私はこういう人間だ」
「私は不幸だ」
「私は価値がない」
「私は愛されない」
「私は変われない」
その思い込みを守るために、私たちは現実を見る目を曇らせます。
優しさを疑う。
可能性を否定する。
小さな成功を無視する。
変化の兆しを壊す。
自分を助けようとする言葉さえ拒む。
そして、また確認します。
「やっぱり私はダメだ」
「やっぱり私は満たされない」
「やっぱり世界は冷たい」
けれど、それは世界の真実なのでしょうか。
それとも、自分の執着が作り出した見え方なのでしょうか。
仏教は、自己への執着こそが苦しみを生むと見ます。
私たちは、自分を中心に世界を見ます。
私が傷ついた。
私が認められない。
私が愛されない。
私が損をした。
私だけが苦しい。
私だけが満たされていない。
この「私」が強くなるほど、世界は狭くなります。
出来事そのものを見る前に、自分の価値と結びつけてしまうのです。
失敗した。
だから私はダメだ。
断られた。
だから私は価値がない。
怒られた。
だから私は否定された。
うまくいかない。
だから人生は苦しい。
しかし、理性的に見れば、そこにはただ原因と結果があります。
失敗には原因があります。
断られたことにも条件があります。
怒られたことにも背景があります。
うまくいかないことにも仕組みがあります。
そこに、いちいち「自分の価値」を貼りつける必要はありません。
問題は、あなたの価値ではありません。
問題は、原因と条件です。
準備が足りなかった。
方法が合っていなかった。
経験が不足していた。
相手との関係性が整っていなかった。
環境が悪かった。
判断材料が足りなかった。
疲れていて冷静に見られなかった。
そう見れば、問題は人格ではなく現象になります。
現象であれば、観察できます。
観察できれば、整理できます。
整理できれば、行動を変えられます。
行動が変われば、結果も変わります。
心で捏造された「自分の価値」に振り回される必要はありません。
大切なのは、自分を好きになることではありません。
自分に価値があると無理に信じ込むことでもありません。
自分の価値という発想そのものから、少し離れることです。
私は価値がある。
私は価値がない。
この二つは反対に見えて、どちらも「私」に執着しています。
価値がある自分を守りたい。
価値がない自分を証明したい。
どちらも、自分を中心に世界を見ています。
そこから少し離れて、こう見るのです。
今、こういう条件がある。
だから、こういう結果が出ている。
今、こういう考えが生じている。
だから、こういう苦しみが生じている。
今、こういう行動をしている。
だから、こういう現実につながっている。
これは冷たい見方ではありません。
むしろ、心を自由にする見方です。
なぜなら、自分を責めなくてよくなるからです。
自分を特別な不幸の主人公にしなくてよくなるからです。
感情で問題を大きくしなくてよくなるからです。
今悩んでいること。
困っていること。
人間関係の苦しみ。
仕事の不安。
自分への嫌悪。
満たされなさ。
それらは、あなたの価値を証明するものではありません。
ただ、原因と条件によって生じている現象です。
そう見えたとき、問題は問題ではなくなります。
少なくとも、「私という存在の問題」ではなくなります。
あなたの行動が、あなたに結果をもたらしている。
あなたの考え方が、あなたの見え方を作っている。
あなたの執着が、あなたの苦しみを強めている。
それが明瞭に見えてくれば、変えるべきものも見えてきます。
ここで大切なのは、「自分だけが不幸だ」という妄想から離れることです。
人はみな、苦しみをベースに生きています。
あなたの目に映る他人も、平然としているように見える人も、楽しそうに見える人も、皆それぞれの苦しみを抱えています。
仏教的に言えば、皆、頭に火がついてのたうち回っているような存在です。
不安があり、恐れがあり、欲があり、怒りがあり、執着があり、失う怖さがあります。
自分だけが特別に苦しいわけではありません。
自分だけが満たされていないわけでもありません。
自分だけが欠けているわけでもありません。
人はみな、苦しみの中で生きています。
そう見えたとき、自分の苦しみだけを絶対視しなくて済みます。
「なぜ私だけが」ではなく、
「人間とは、こういう条件の中で苦しむものなのだ」
と見ることができます。
その視点が生まれると、少しずつ淡々と行動できるようになります。
自分を責めるためではなく、原因を見る。
誰かを恨むためではなく、条件を見る。
感情に飲まれるためではなく、現象を見る。
価値を証明するためではなく、行動を変える。
そこに、自由の入口があります。
自分を嫌いなままでも構いません。
自信がないままでも構いません。
満たされていないと感じていても構いません。
ただ、その感覚を「真実」にしないことです。
「私は価値がない」という思考が生じている。
「失敗が怖い」という反応が生じている。
「変わりたくない」という執着が生じている。
「人の優しさを拒みたい」という防衛が生じている。
そうやって、一つひとつを現象として見る。
すると、心に少し隙間ができます。
その隙間があるから、私たちは変われます。
自分というものを絶対視しない。
自分の価値にこだわらない。
自己評価に心を預けない。
良い自分も、悪い自分も、固定しない。
ただ、原因と結果を見る。
条件を見つめる。
行動を変える。
それは、自分を否定することではありません。
むしろ、自分という執着から少し自由になることです。
無価値なものをなぜ守るのか。
その答えは、私たちが本当は「無価値な自分」を守っているのではなく、
「自分」という思い込みそのものに執着しているからです。
その執着がゆるんだとき、世界は少し違って見えます。
悩みは、自分の価値をめぐる物語ではなくなります。
ただの現象になります。
そして現象なら、見つめることができます。
変えることができます。
手放すこともできます。
自分の問題点と向き合いたい方、
今の悩みを仏教の智慧と理性的な視点から整理したい方は、質問や相談をお待ちしています。