小学校の夏休みの思い出

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コラム
夏休みになると私たち小学生は、地区ごとに一軒の家に集まって午前中を過ごしました。昭和30年代のことです。男女別々で、しかもわが上小路2行政区は児童数が多かったせいで3班に分かれてやりました。夏休み部落子供会ってやつです。

休みに入る前に地区の担当の先生と子供たちとで、日程やら過ごし方やらの計画を立てました。親は一切タッチしません。なぜ?だって当然でしょ、子供会なのですから。

先生方が休みに入るお盆までの間に、確か10日間ぐらい集まったと思います。集まって何をしたかというと、うんざりするほどあった宿題、算数のドリルや夏休み帳などを持ってきて、それらをやるのです。もちろん子供だけですから、ペチャクチャ話をしたりプロレスごっこをしたりして遊ぶことの方が多かったのですが、そこはそれ、6年生を中心とした秩序がちゃんとあって、サボったり勝手に帰ったり、収拾がつかなくなったりなんてことはありませんでした。

お昼近くになると、担当の先生がちゃんとやっているかどうか見に来るのですが、私たちもそのへんは心得ていて、見張り役を一人置いて、先生が来たと分かるとさっと勉強のふりをするのです。すると先生は「よくやってますね。」とか言って、そこでその日は解散となるわけです。

その後それぞれ家へ帰って、お昼をかっ込んで、再び三々五々集まって今度は川へ水浴びに行くわけです。麦わら帽子にランニングシャツ、だぶだぶの半ズボンにゴムの草履かサンダル履きといった格好で、浮き輪や水中眼鏡やヤスなんか持って、ぞろぞろと行列をつくって歩いて川へ行ったものでした。2〜3日もするとみんな真っ黒に日焼けしちゃいました。

そして閉校式の日となると、みんなでお米と野菜を持ち寄り、肉とカレー粉はお金を出し合って買ってきて、宿のお母さんにライスカレーをつくってもらいました。カレーライスではなくライスカレーって言ってましたね、当時は。それがうまいのなんのって。だいたいライスカレー自体がご馳走でしたし、やっぱりみんなで食べるとなるとなおさらおいしくて、何杯もおかわりする「おだずもっこ」がいたりして、お腹がまるでスイカみたいに膨らんでいましたっけ。そうして私たちの子供会が終了するのでした。

やがてお盆が過ぎ、ふとした風のそよぎに秋の気配が感じられると、今度は残った宿題が俄然気になり始めます。毎度のことなのですが いつも同じことの繰り返しで、ホント情けない思いをしたものでした。

時が流れて昭和59年、上の子が小学校に入りました。ほどなくしてカミさんが、子供会の集まりだと言って出かけるのです。まあ海水浴か何かの打ち合わせだろうと思っていたのですが、いやあびっくりしましたね。何のことはない、全部親がお膳立てをして、わっぱか終わらせちゃうのです。

ひねくれ者の私は「子供会という名前を変えちゃったら?」と言って、真面目なご父兄から白い目で見られたものですが、では仮に昔みたいにやらせてみようというのは絶対に無理な話でした。何より子供たちが嫌がったでしょう。もう時代は当然のことながら変わったのだということを実感した出来事でした。


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