「運命」を待っていた日々
カウンセリングルームのドアをノックする音が聞こえた。いつもより少し遠慮がちな音だ。
「どうぞ」
ドアが開くと、30代前半くらいの女性が入ってきた。少し緊張した様子で、何度か深呼吸をしてから椅子に座る。
「初めまして、ダイキです。今日はどんなお話でしょうか?」
サキさんは少し間を置いてから、小さな声で話し始めた。
サキ「あの......恋愛、というか......人との出会いについて相談したくて」
ダイキ「出会いについて、ですね」
サキ「はい。なんか......変な相談かもしれないんですけど」
彼女は手元のバッグを握りしめていた。
サキ「私、ずっと『運命の出会い』って信じてたんです。いつか、ビビッとくる人に出会えるんじゃないかって」
ダイキ「ビビッとくる......」
サキ「そう。映画みたいな。でも、30過ぎて......そういう出会いって、待ってるだけじゃ来ないのかなって」
少し寂しそうな笑顔を見せる。
ダイキ「待っているだけでは来ない、と感じるようになったんですね」
サキ「はい......」
気になる人の存在
サキさんは、コーヒーカップを両手で包み込むようにして持っている。
サキ「実は、最近......気になる人がいるんです」
ダイキ「気になる人」
サキ「会社の違う部署の人で。たまに廊下ですれ違ったり、エレベーターで一緒になったりするんですけど......」
彼女は少し頬を赤らめた。
サキ「でも、ただそれだけで。話したこともほとんどなくて」
ダイキ「どれくらいの期間、その方のことが気になっているんですか?」
サキ「半年......いや、もっとかもしれません。最初は全然意識してなかったんですけど、いつの間にか......」
サキさんは言葉を探すように視線を泳がせた。
サキ「なんていうか......毎朝、会社に行くのが楽しみになってたんです。もしかしたら会えるかもって」
ダイキ「会えるかもしれない、と思うと?」
サキ「ドキドキするんです。でも、それって......おかしいですよね? 話したこともないのに」
「偶然」の積み重ね
ダイキ「話したことがないのに、気になってしまう。それが不思議に感じるんですね」
サキ「はい。友達に相談したら、『それただの一目惚れでしょ』って言われて。でも、一目惚れっていうのとも違う気がするんです」
ダイキ「違う、というのは?」
サキ「最初に見たときは、正直、そこまで何とも思わなかったんです。でも......」
彼女は窓の外を見つめた。
サキ「毎朝、同じ時間帯に出社すると、よくエレベーターで一緒になるんです。最初は『あ、また一緒だ』くらいだったんですけど......」
ダイキ「だんだんと?」
サキ「気になり始めたんです。なんでだろう......」
その瞬間、サキさんの表情が少し明るくなった。まるで何かを思い出したように。
サキ「そういえば、あの人も私のこと......時々見てる気がするんです。勘違いかもしれないですけど」
ダイキ「それは、どんなときに感じますか?」
サキ「エレベーターで一緒になったとき、とか......社員食堂で遠くから、とか......」
心理学が教えてくれること
ダイキ「サキさん、『毎朝エレベーターで会う』というのは、とても興味深いですね」
サキ「......興味深い?」
ダイキ「はい。実は、人間関係には『近さ』が大きく影響するんです」
サキさんは少し前のめりになった。
ダイキ「物理的な距離が近い人、よく会う人に対して、人は自然と好意を持ちやすいという心の仕組みがあるんです」
サキ「それって......」
ダイキ「繰り返し会うことで、親しみが増していく。心理学では、これを単純接触効果と呼んでいます」
サキ「単純接触......」
ダイキ「そう。何度も顔を合わせることで、『知っている人』という安心感が生まれて、それが『気になる人』に変わっていくことがあるんです」
サキさんは目を見開いた。
サキ「じゃあ、私がその人のことを気になるようになったのって......」
ダイキ「毎朝エレベーターで会っていたから、かもしれませんね」
サキ「でも、それって......運命の出会いとは違いますよね?」
「運命」の正体
ダイキ「サキさんにとって、『運命の出会い』とはどんなものですか?」
サキ「うーん......なんていうか、ビビッと来て、すぐに『この人だ!』ってわかる、みたいな......」
ダイキ「一瞬で確信する感じ」
サキ「はい。でも、私の場合は......半年かけて、じわじわ気になっていったわけで......」
彼女は少し自嘲気味に笑った。
サキ「だから、これは運命じゃないのかなって」
ダイキ「......本当にそうでしょうか?」
サキさんは、ダイキの問いかけに少し驚いた表情を見せた。
ダイキ「もし、サキさんが毎朝違う時間に出社していたら? もし、その方が違う階で働いていたら?」
サキ「......会わなかったかもしれないですね」
ダイキ「そう。つまり、お二人が同じ時間に同じエレベーターに乗るという『偶然』があったからこそ、今の気持ちがあるんです」
サキ「偶然......」
ダイキ「でも、その偶然を重ねていったのは、サキさん自身です。毎朝同じ時間に出社して、同じエレベーターを使って」
サキさんの目に、涙が浮かんだ。
サキ「じゃあ、これって......運命なんですか?」
ダイキ「運命かどうかは、私にはわかりません。でも、少なくとも......サキさんが気づかないうちに、『運命』を育ててきたのは確かですね」
環境を作るということ
少しの沈黙の後、サキさんが口を開いた。
サキ「ダイキさん、じゃあ......これからどうすればいいんでしょう?」
ダイキ「どうしたいですか?」
サキ「話してみたい、です。でも......きっかけがなくて」
ダイキ「きっかけ」
サキ「そう。エレベーターで一緒になっても、挨拶くらいで。それ以上、どう話しかけていいかわからなくて」
ダイキ「もし、もっと自然に話せる環境があったら?」
サキ「......環境?」
ダイキ「例えば、社員食堂で隣に座る機会があったら。社内のイベントで同じグループになったら」
サキさんは少し考え込んだ。
サキ「でも、それって......狙ってやるのは、なんか......」
ダイキ「計算高い感じがする?」
サキ「はい......」
ダイキ「サキさん、『環境を作る』というのは、『操作する』こととは違うんです」
サキさんは、ダイキの顔を見つめた。
ダイキ「例えば、社員食堂で『いつもと違う席に座ってみる』。それだけで、新しい出会いが生まれるかもしれない。社内イベントに『参加してみる』。それだけで、普段話さない人と話すきっかけができるかもしれない」
サキ「......」
ダイキ「それは、『その人と近づくため』だけじゃなくて、『自分の世界を広げるため』でもあるんです」
一歩を踏み出す勇気
ダイキ「サキさん、今の気持ちを聞かせてもらえますか?」
サキ「......怖いです」
ダイキ「何が怖いですか?」
サキ「もし、話しかけて......迷惑だったらどうしようって」
彼女の声が少し震えた。
サキ「もし、嫌われたら......今の『もしかしたら』っていう気持ちも、なくなっちゃうんじゃないかって」
ダイキ「『もしかしたら』という可能性を失いたくない」
サキ「はい......」
彼女は、コーヒーカップを握りしめた。
サキ「今は、まだ希望があるんです。『もしかしたら、向こうも私のこと気づいてくれてるかも』『もしかしたら、話しかけたら仲良くなれるかも』って」
ダイキ「その希望を、大切にしたい」
サキ「でも、もし行動して、拒否されたら......その希望すら失っちゃう。それが、すごく怖いんです」
ダイキさんは、少し間を置いてから話し始めた。
ダイキ「サキさん、今から少し厳しいことを言ってもいいですか?」
サキさんは、少し驚いた表情を見せたが、頷いた。
サキ「......はい」
ダイキ「『もしかしたら』のままでいることと、『やってみる』こと、どちらが怖いですか?」
サキ「......え?」
ダイキ「今のサキさんは、『もしかしたら』を大切にしている。でも、それは同時に、『もしかしたら』から先に進めないということでもあります」
サキさんは、俯いた。
ダイキ「そして、その『もしかしたら』は......実は、もう存在しない可能性もあります」
サキ「......どういうことですか?」
ダイキ「もしかしたら、その方はすでに恋人がいるかもしれない。もしかしたら、来月には転勤してしまうかもしれない。もしかしたら、サキさんが動かない間に、他の誰かと親しくなってしまうかもしれない」
サキさんの顔が、みるみるうちに青ざめていった。
サキ「......そんな」
ダイキ「『もしかしたら』を守ろうとして、何もしないでいる間に......本当の可能性が、どんどん遠ざかっていくこともあるんです」
長い沈黙が流れた。サキさんは、何も言わずに俯いたまま、涙をこぼしていた。
サキ「......わかってます」
小さな声だった。
サキ「わかってるんです。でも......動けないんです」
ダイキ「動けない」
サキ「怖くて......傷つくのが、怖くて......」
彼女の涙は、止まらなかった。
サキ「私、ずっと......ずっと待ってたんです。誰かが私を見つけてくれるのを。誰かが私に声をかけてくれるのを」
ダイキ「待っていた」
サキ「でも、誰も来なかった......」
彼女の声は、震えていた。
サキ「学生時代も、社会人になってからも......いつも、誰かが私を見つけてくれるのを待ってた。でも、誰も......」
サキさんは、顔を覆って泣き続けた。
ダイキは、静かに彼女の涙が落ち着くのを待った。
しばらくして、サキさんは顔を上げた。目は赤く腫れていたが、その瞳には何か決意のようなものが宿っていた。
サキ「......ダイキさん」
ダイキ「はい」
サキ「私、もう待ちたくないです」
ダイキ「待ちたくない」
サキ「はい。待ってるだけじゃ、何も変わらない。それは......もうわかってるから」
彼女は、ハンカチで涙を拭いた。
サキ「怖いです。すごく怖い。でも......このまま何もしないで、また誰かが通り過ぎていくのを見てるのは......もっと怖いです」
ダイキ「それは、とても勇気のいる決断ですね」
サキ「でも......もし、やってみて、やっぱりダメだったら......どうすればいいんですか?」
ダイキ「どうすればいいと思いますか?」
サキ「......わかりません」
ダイキ「サキさん、拒否されたとき、確かに傷つくでしょう。でも、何もせずに可能性が消えていったとき、それは傷つかないでしょうか?」
サキさんは、じっと考え込んだ。
サキ「......傷つきます。多分、もっと」
ダイキ「どちらが正しいとか、間違っているとかじゃないんです。ただ、どちらを選びたいか、です」
サキ「......」
ダイキ「そして、もし挑戦して、結果が望んだものではなかったとしても......少なくとも、サキさんは『行動した』という事実を手に入れます」
サキ「行動した、という事実......」
ダイキ「そう。それは、次に進むための力になります」
小さな一歩から
ダイキ「サキさん、もし明日から何か一つだけ変えられるとしたら、何を変えたいですか?」
サキ「一つだけ......?」
ダイキ「はい。大きなことじゃなくて、小さなことで構いません」
サキさんは、しばらく考えてから答えた。
サキ「......挨拶、かな」
ダイキ「挨拶」
サキ「今まで、エレベーターで一緒になっても、目が合っても、なんとなく目を逸らしちゃってたんです。なんか......恥ずかしくて」
ダイキ「恥ずかしかった」
サキ「はい。もし、私が見てるのがバレたら、変な人だと思われるんじゃないかって。だから、いつも下を向いちゃってました」
彼女は、少し自嘲気味に笑った。
サキ「でも......ちゃんと『おはようございます』って言ってみたいです」
ダイキ「それは素敵ですね」
サキ「でも、それだけじゃ......関係は変わらないですよね?」
ダイキ「そんなことはありません。むしろ、それが一番大切な第一歩なんです」
サキさんは、少し驚いた表情を見せた。
ダイキ「サキさん、挨拶というのは、『あなたの存在を認識しています』というメッセージなんです」
サキ「存在を認識している......」
ダイキ「そう。今まで、お互いに『見ないふり』をしていた。でも、挨拶を交わすことで、『私はあなたを見ています』『あなたの存在を大切に思っています』ということを伝えられる」
サキ「......」
ダイキ「そして、それを続けることで、『すれ違う人』から『顔見知り』に変わっていきます」
サキ「顔見知り......」
ダイキ「はい。そして、『顔見知り』になれば、次のステップ......例えば、天気の話をしたり、『今日も早いですね』と声をかけたりすることが、自然にできるようになります」
サキさんの目が、少しずつ輝き始めた。
サキ「じゃあ、挨拶から始めれば......」
ダイキ「少しずつ、関係が深まっていく可能性があります」
サキ「でも、もし......挨拶しても、無視されたら......」
ダイキ「その可能性もあります。でも、サキさん、今の状態と比べて、何か失うものはありますか?」
サキさんは、しばらく考えてから答えた。
サキ「......ないです」
ダイキ「そうです。今は、話したこともない状態。挨拶して無視されても、状況は変わらない。でも、もし挨拶が返ってきたら......」
サキ「新しい可能性が生まれるんですね」
ダイキ「その通りです」
サキさんは、深呼吸をした。
サキ「わかりました。明日から......ちゃんと挨拶してみます」
ダイキ「素晴らしいですね。ちなみに、挨拶するときのコツがあるんですが、聞きたいですか?」
サキ「はい、ぜひ!」
ダイキ「まず、相手の目を見ること。そして、笑顔で。最後に、はっきりとした声で」
サキ「目を見て、笑顔で、はっきりと......」
ダイキ「そうです。そうすることで、『あなたに挨拶しています』というメッセージがより明確に伝わります」
サキ「なるほど......」
ダイキ「そして、もう一つ大切なことがあります」
サキ「何ですか?」
ダイキ「もし、最初の挨拶で相手の反応が薄くても、諦めないこと。人は、繰り返し接触することで、だんだんと心を開いていくんです」
サキ「繰り返し接触......」
ダイキ「そう。1回目の挨拶で無視されても、2回目、3回目と続けていくうちに、相手も『この人、毎日挨拶してくれるな』と認識するようになる。そして、それが親しみに変わっていくんです」
サキさんは、希望に満ちた表情で頷いた。
サキ「わかりました。続けます。絶対、続けます」
「場」を共有する意味
サキ「ダイキさん、もう一つ聞いていいですか?」
ダイキ「どうぞ」
サキ「近くにいるだけで、本当に好意って生まれるんですか? なんか、それだけじゃ......薄い気がするんです」
ダイキ「薄い、というのは?」
サキ「運命の出会いって、もっとこう......特別なものだと思ってたんです。でも、ただ『よく会う』っていうだけで好きになるって......なんか、軽い感じがして」
彼女は少し困ったような表情を見せた。
ダイキ「サキさん、『よく会う』というのは、ただ物理的に近くにいるだけじゃないんです」
サキ「......え?」
ダイキ「同じ空間にいる。同じ時間を過ごす。それは、『同じ経験を共有している』ということなんです」
サキさんは、じっと聞いていた。
ダイキ「例えば、毎朝同じエレベーターに乗る。それは、同じ朝の空気を吸って、同じビルの景色を見て、同じ時間を過ごしているということです」
サキ「同じ時間......」
ダイキ「そう。人は、同じ経験を共有することで、無意識のうちに『仲間』だと感じるようになります。それが、親しみや安心感につながっていく」
サキ「じゃあ、私がその人のことを『気になる』って思ったのは......」
ダイキ「毎朝同じ時間を共有していたから。そして、その共有が、サキさんにとって心地よかったから、かもしれませんね」
しばらくの沈黙の後、サキさんはゆっくりと涙を拭いた。
サキ「実は......ずっと自分を責めてたんです」
ダイキ「自分を?」
サキ「話したこともない人を好きになるなんて、私ってミーハーだな、軽いなって。友達にも『顔だけで好きになったの?』って笑われて......」
彼女の声が少し震えた。
サキ「でも、違うんです。顔が好きとかじゃなくて......なんていうか、その人がいる空間が、私にとって......」
言葉を探すように、サキさんは視線を泳がせた。
サキ「......安心できる場所だったんです」
ダイキ「安心できる場所」
サキ「はい。エレベーターで一緒になると、なんか......ホッとするんです。朝の憂鬱な気持ちが、少し軽くなるというか」
ダイキ「その感覚は、とても大切なものです」
サキ「大切......?」
ダイキ「人は、自分を安心させてくれる存在に惹かれます。それは、本能的なものなんです」
サキさんの目から、涙が一粒こぼれた。
サキ「なんか......嬉しいです」
ダイキ「嬉しい?」
サキ「自分の気持ちが、ちゃんと理由があって生まれたものだって......わかったから」
彼女は、ハンカチで涙を拭きながら続けた。
サキ「私、ずっと自分の気持ちを信じられなかったんです。『これって本当に恋なのかな』『ただの憧れなのかな』って。でも......」
ダイキ「でも?」
サキ「今、わかりました。これは、ちゃんとした気持ちなんだって」
過去が教えてくれたこと
ダイキ「サキさん、これまでの人生で、『気がついたら仲良くなっていた』という経験はありますか?」
サキ「......あります」
ダイキ「それは、どんな状況でしたか?」
サキさんは、少し遠くを見るような目をした。
サキ「大学のとき、同じゼミだった友達です。最初は全然話さなかったんですけど、毎週同じ授業を受けて、同じ課題をやって......気がついたら、すごく仲良くなってました」
ダイキ「毎週同じ時間を過ごしていた」
サキ「はい。今思えば......最初の頃は、その子のこと、正直ちょっと苦手だったんです」
ダイキ「苦手だった」
サキ「なんか、すごくハキハキしてて、私とは真逆のタイプで。でも、毎週顔を合わせてるうちに......だんだん、その子の良いところが見えてきて」
彼女は、懐かしそうに微笑んだ。
サキ「気づいたら、その子がいないとゼミがつまらないって思うようになってました。今でも連絡取り合ってる、大切な友達です」
ダイキ「それは素敵な関係ですね。他にも、そういう経験は?」
サキ「あと、社会人になってからも......隣の席の子と、最初はあまり話さなかったんですけど、毎日顔を合わせてるうちに、いつの間にか親友になってました」
ダイキ「毎日、顔を合わせることで」
サキ「はい。最初は業務の話だけだったんです。でも、毎日『おはよう』『お疲れさま』って声をかけ合ってるうちに、だんだんプライベートの話もするようになって......」
サキさんは、何かに気づいたような表情を見せた。
サキ「あ......そうか」
ダイキ「何か気づかれましたか?」
サキ「私、今まで『偶然』だと思ってたけど......違うんですね」
ダイキ「どういうことでしょう?」
サキ「大学の友達も、会社の同僚も......同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていたから、仲良くなれたんですね」
ダイキ「そうです。そして、それは恋愛でも同じことなんです」
サキさんは、深く頷いた。
サキ「でも......なんで今まで気づかなかったんだろう。こんなに身近にあったのに」
ダイキ「恋愛となると、『特別なきっかけ』や『劇的な出会い』を期待してしまうからかもしれませんね」
サキ「......そうですね」
彼女は、少し考え込んでから続けた。
サキ「ダイキさん、もう一つ思い出したことがあります」
ダイキ「どんなことですか?」
サキ「学生時代、ずっと片思いしてた人がいたんです」
ダイキ「片思い」
サキ「はい。でも、その人とは全然接点がなくて......遠くから見てるだけでした」
サキさんの表情が、少し曇った。
サキ「結局、何も起こらなかったんです。ずっと待ってたけど、向こうは私の存在にすら気づいてなかったと思います」
ダイキ「それは、辛い経験でしたね」
サキ「はい......でも、今思えば、当たり前ですよね。話したこともない、同じ時間も過ごしたことがない。それなのに、相手が気づいてくれるわけない」
彼女は、自嘲気味に笑った。
サキ「私、ずっとその失恋を引きずってたんです。『運命の人じゃなかった』って。でも......」
ダイキ「でも?」
サキ「運命じゃなかったんじゃなくて......私が、運命を作る努力をしなかっただけだったんですね」
その言葉を口にした瞬間、サキさんの目から涙が溢れ出した。
サキ「ごめんなさい......急に泣いちゃって......」
ダイキ「大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません」
サキさんは、しばらく涙を流し続けた。それは、悲しみの涙ではなく、何かが解放されたような涙だった。
サキ「......すっきりしました」
ダイキ「そうですか」
サキ「なんか、ずっと胸の奥に引っかかってたものが、取れた気がします」
「運命」を作る環境づくり
サキ「ダイキさん、じゃあ......私、もっと積極的に『場』を作っていいんですね?」
ダイキ「場を作る、というのは?」
サキ「例えば、その人がよく行くカフェを調べて、私も行ってみるとか......」
ダイキ「それについては、どう感じますか?」
サキ「正直......ちょっとストーカーみたいで、怖いです」
ダイキ「そうですね。大切なのは、『自然な接点』を増やすことです」
サキ「自然な接点......」
ダイキ「例えば、社内のイベントに参加してみる。共通の趣味のサークルがあれば、入ってみる。そういった、『自分も楽しめる場』で、偶然会う機会を増やす」
サキ「自分も楽しめる場......」
ダイキ「そう。大切なのは、『その人のため』だけじゃなくて、『自分のため』でもあること。そうすれば、たとえその恋が実らなくても、サキさん自身の世界は広がっていきます」
サキさんは、深く頷いた。
サキ「なるほど......」
次の一歩
ダイキ「サキさん、今日のお話を通して、何か変わったことはありますか?」
サキ「はい......運命の出会いって、待つものじゃなくて、作るものなんだって、わかりました」
ダイキ「作るもの」
サキ「でも、無理やり作るんじゃなくて......自分が楽しめる環境を作りながら、その中で自然に会う機会を増やしていく、みたいな」
ダイキ「素晴らしいですね」
サキ「まずは、明日から......ちゃんと挨拶してみます」
彼女の表情は、来たときよりもずっと明るくなっていた。
サキ「あと、社内のボランティアサークルに入ってみようかなって思ってるんです。前から興味あったんですけど、なんとなく躊躇してて」
ダイキ「それは、どんなサークルですか?」
サキ「地域の清掃活動とか、子どもたちとの交流会とかをやってるサークルです。実は......その人も、そのサークルに入ってるみたいで......」
ダイキ「それは、素敵な接点ですね」
サキ「はい。でも、それだけじゃなくて......私自身、そういう活動に興味があったんです。ただ、一人で参加する勇気がなくて」
ダイキ「今は、その勇気が出てきた?」
サキ「はい......なんか、その人に会えるかもっていう期待もあるけど、それ以上に、自分の世界を広げたいって思えるようになりました」
数週間後
それから数週間後、サキさんは再びカウンセリングに訪れた。
彼女の表情は、以前とは明らかに違っていた。歩き方も、姿勢も、どこか自信に満ちているように見えた。
サキ「ダイキさん、聞いてください!」
ダイキ「どうされましたか?」
サキ「あの人と、話せたんです!」
彼女の目は輝いていた。でも、それは単なる恋の喜びだけではない、何か別の輝きも含まれているように見えた。
ダイキ「それは素晴らしいですね。どんな状況でしたか?」
サキ「ボランティアサークルに入って、先週末の清掃活動に参加したんです。そしたら、その人も来てて......」
彼女は、少し頬を赤らめた。
サキ「最初は、すごく緊張しました。心臓がバクバクで、手も震えて......正直、逃げ出したくなりました」
ダイキ「でも、逃げなかった」
サキ「はい。だって......もう待つのはやめようって、決めたから」
彼女の声は、確信に満ちていた。
サキ「清掃してる途中で、たまたま近くになったんです。それで......勇気を出して、『いつもエレベーターでお会いしますよね』って話しかけました」
ダイキ「よく勇気を出されましたね」
サキ「もう、声が震えちゃって。でも、その人、すぐに『あ、覚えてます! いつも同じ時間ですよね』って言ってくれて」
サキさんは、その瞬間を思い出すように、目を閉じた。
サキ「その言葉を聞いたとき、なんか......『ああ、この人も私のこと気づいてくれてたんだ』って思って、すごく嬉しくて......」
ダイキ「相手も、サキさんの存在を認識していた」
サキ「はい。それだけで、もう......何もかも報われた気がしました」
彼女は、幸せそうに笑った。
サキ「それから、色々話したんです。この活動に参加したきっかけとか、普段どんな仕事してるかとか......」
ダイキ「自然な会話ができたんですね」
サキ「はい。最初は緊張してたんですけど、話してるうちに、だんだんリラックスしてきて......気づいたら、笑い合ってました」
ダイキ「それは良かったですね」
サキ「でも、ダイキさん......一番嬉しかったのは、それだけじゃないんです」
ダイキ「というと?」
サキ「清掃活動自体が、すごく楽しかったんです」
彼女の表情が、さらに明るくなった。
サキ「地域の人たちと話したり、一緒に汗を流したり......なんか、こういうのって初めてだったんですけど、すごく充実感があって」
ダイキ「充実感」
サキ「はい。その人と話せたから嬉しいっていうのもあるんですけど、それ以上に......『私、こういうことがしたかったんだ』って気づけたことが、すごく嬉しくて」
ダイキ「それは、大切な発見ですね」
サキ「そうなんです。で、清掃活動が終わって、解散するときに......その人が『次のイベントにも参加しますか?』って聞いてくれたんです」
ダイキ「向こうから」
サキ「はい! それで、『はい、ぜひ!』って答えて......『じゃあ、次も一緒に頑張りましょう』って言ってもらえて......」
サキさんの目が、また涙で潤んだ。でも、それは喜びの涙だった。
サキ「なんか......夢みたいです」
気づきの瞬間
サキ「ダイキさん、不思議なことに気づいたんです」
ダイキ「どんなことですか?」
サキ「その人と話してみて、思ったより......普通の人だったんです」
ダイキ「普通の人」
サキ「はい。なんていうか、遠くから見てたときは、すごく特別な人みたいに思ってたんです。完璧で、何でもできて、私とは違う世界の人みたいな」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
サキ「でも、実際に話してみたら......仕事で失敗した話とか、朝起きるのが苦手な話とか......すごく普通の人で」
ダイキ「それを聞いて、どう感じましたか?」
サキ「最初は、ちょっと拍子抜けしました。『あれ、こんな感じなんだ』って」
ダイキ「拍子抜け」
サキ「でも......その『普通さ』が、すごく魅力的だって思ったんです」
サキさんは、窓の外を見つめながら続けた。
サキ「遠くから見てたときは、その人の『表面』しか見えてなかったんだなって。でも、近づいて、話して、初めて......その人の『人間らしさ』が見えてきた」
ダイキ「人間らしさ」
サキ「はい。弱いところとか、不器用なところとか......でも、そういうところが、逆にすごく愛おしく感じるんです」
彼女の目は、優しく輝いていた。
ダイキ「それは、とても大切な気づきですね」
サキ「近づいてみて、初めてわかることってあるんだなって」
ダイキ「サキさん、今の言葉、とても重要なことを言っていますね」
サキ「......え?」
ダイキ「『遠くから見ているだけでは、その人の本当の姿は見えない』。これは、すべての人間関係に共通することなんです」
サキさんは、じっとダイキの顔を見つめた。
ダイキ「人は、物理的に近づくことで、相手の細かい表情や仕草、声のトーンなど......言葉以外の多くの情報を受け取ることができます」
サキ「言葉以外の情報......」
ダイキ「そう。その人が笑うときの目の形とか、困ったときの眉の動きとか......そういう細かい情報が、『この人はこういう人なんだ』という理解につながっていく」
サキ「だから、話してみて、イメージが変わったんですね」
ダイキ「はい。そして、それは悪いことじゃないんです。むしろ、それが『本当にその人を知る』ということなんです」
サキさんは、深く頷いた。
サキ「そして......気づいたんです。私が『運命の出会い』だと思っていたのは......実は、自分で作っていたんだって」
ダイキ「自分で作っていた」
サキ「毎朝同じ時間に出社して、同じエレベーターに乗って、同じように挨拶して......それを繰り返すことで、自然と親しみを感じるようになっていたんです」
彼女は、ハッとした表情を見せた。
サキ「でも、それだけじゃダメだったんですね。近くにいるだけじゃ、本当の関係は始まらない」
ダイキ「どういうことでしょう?」
サキ「話しかける、という一歩を踏み出さないと......ずっと『すれ違う人』のままだったんです」
ダイキ「その通りです。近さは、関係を作るための『土台』です。でも、そこから先は......」
サキ「自分から動かないといけないんですね」
ダイキ「そうです。近さが作る親しみは、『可能性』を作る。でも、その可能性を『現実』にするのは、自分の行動なんです」
サキさんは、目を潤ませながら頷いた。
サキ「わかりました。本当に......わかりました」
これから
サキ「ダイキさん、この先どうなるかはわかりません。もしかしたら、恋愛に発展するかもしれないし、友達で終わるかもしれない」
ダイキ「それについては、どう感じていますか?」
サキ「前だったら、すごく不安だったと思います。でも、今は......どっちでもいいかなって」
ダイキ「どっちでもいい?」
サキ「はい。だって、私、すでにたくさんのものを得ているから」
サキさんの表情は、穏やかだった。
サキ「ボランティアサークルに入って、新しい友達ができました。週末の過ごし方も変わりました。そして......『待つ』じゃなくて『動く』ことの大切さを知りました」
ダイキ「それは、素晴らしい変化ですね」
サキ「運命の出会いって、ただ待っているだけじゃ来ない。でも、自分から環境を作っていけば、いつかきっと......」
彼女は、窓の外を見つめた。
サキ「『運命』って、結局......自分で作るものなんですね」
ダイキ「そう思います。そして、サキさんは今、まさにそれを実践しているんです」
エピローグ
カウンセリングの最後、サキさんはこう言った。
サキ「ダイキさん、もう一つ気づいたことがあるんです」
ダイキ「どんなことですか?」
サキ「『運命の出会い』って、一瞬の出来事じゃないんだって」
ダイキ「一瞬じゃない」
サキ「はい。毎日の小さな積み重ね。挨拶したり、同じ場所にいたり、同じ時間を過ごしたり......そういう『何でもない日常』の中に、運命は隠れてるんだって」
彼女は、確信に満ちた表情でダイキを見つめた。
サキ「だから、これからは......一瞬の奇跡を待つんじゃなくて、毎日の小さな奇跡を大切にしていきたいです」
ダイキ「素敵ですね」
サキ「ありがとうございました、ダイキさん。私、もう大丈夫です」
そう言って、サキさんはカウンセリングルームを後にした。
窓から差し込む午後の光が、彼女の後ろ姿を優しく照らしていた。