「私、何も始められないんです」
カウンセリングルームに入ってきたサチコは、42歳。落ち着いた雰囲気の女性だったが、その表情には深い疲れが浮かんでいた。
サチコ「半年前に会社を辞めて……それから、何も始められないんです」
彼女は小さく息を吐いた。
サチコ「辞めたときは、『これでやっと自分の時間が持てる』って思ったんです。でも、いざ自由になったら……何もする気が起きなくて」
ダイキ「何もする気が起きない……」
サチコ「朝起きても、特にやることがない。履歴書を書こうと思っても手が動かない。資格の勉強を始めようと思っても、集中できない。友達に会う気力もない」
彼女は少し言葉に詰まった。
サチコ「周りの人は『せっかく時間があるんだから、やりたいことやればいいじゃん』って言うんです。でも……やりたいことが分からないんです」
ダイキ「やりたいことが分からない」
サチコ「はい。というか……『やらなきゃいけない』とは思うんです。次の仕事を探さなきゃとか、スキルアップしなきゃとか。でも、体が動かない」
彼女の声は少しずつ小さくなっていった。
サチコ「このまま何もしないで時間だけが過ぎていって……気づいたら本当に何もできない人になってしまうんじゃないかって。怖いんです」
何を失ったのか
ダイキ「サチコさん、会社を辞めた理由を聞いてもいいですか?」
サチコは少し考えてから答えた。
サチコ「疲れたんです。もう……限界でした」
ダイキ「限界……」
サチコ「15年間、営業をやってきて。最初の頃は楽しかったんです。お客さんと話すのも好きだったし、数字を追いかけるのもやりがいがあった」
彼女は遠くを見るような目をした。
サチコ「でも、いつからか……毎朝起きるのが辛くなって。電車に乗るのも嫌で。会社に着いたら吐き気がして」
ダイキ「体が悲鳴を上げていたんですね」
サチコ「そうなんです。でも、辞められなかった。『もう少し頑張れば』『来月になれば楽になる』って、自分に言い聞かせて」
彼女は深く息を吸った。
サチコ「ある日、朝起きたら……涙が止まらなくて。体が全然動かなくて。それで、やっと『もう無理だ』って思えたんです」
ダイキ「それで辞めることを決めた」
サチコ「はい。でも……辞めたら辞めたで、今度は『私は逃げたんじゃないか』って思ってしまって」
失ったものと、残ったもの
ダイキ「辞めたことで、何を失ったと感じていますか?」
サチコは少し考えた。
サチコ「肩書き……ですかね。『○○会社の営業』っていう、私を説明する言葉。それがなくなって」
ダイキ「肩書きがなくなると、どう感じますか?」
サチコ「誰でもない人になった感じがします。『あなたは何をしている人ですか?』って聞かれたら、何て答えればいいのか……」
彼女の声が少し震えた。
サチコ「あと、毎日の予定。朝7時に起きて、電車に乗って、会社に行って、お客さんに会って。それが全部なくなって。最初は『やっと自由になれる』って思ったのに……」
ダイキ「自由になったけど?」
サチコ「何していいか分からないんです。予定がないって、こんなに辛いものなんですね」
彼女は苦笑した。
サチコ「それに……収入も。貯金はあるから今すぐ困るわけじゃないけど、毎月減っていくのを見ると不安で」
ダイキ「他には?」
サチコ「人とのつながり……かな。会社の人とは、辞めたらほとんど連絡取らなくなりました。『元気?』って連絡が来ても、『元気です』って嘘つくのが辛くて」
「終わり」を受け入れるということ
ダイキ「サチコさん、一つお聞きしたいんですが……その会社員時代の生活に、戻りたいですか?」
サチコは即座に首を横に振った。
サチコ「いえ、戻りたくないです。あの生活には、絶対に」
ダイキ「じゃあ、今の状態は?」
サチコ「今も辛いです。でも……あの時とは違う辛さ」
ダイキ「どう違いますか?」
サチコは少し考えた。
サチコ「あの時は……毎日が苦しくて、でも終わりが見えなくて。今は……先が見えなくて不安だけど、少なくとも苦しくはない」
ダイキ「なるほど」
サチコ「でも、この状態がいつまで続くのかって思うと……」
ダイキ「サチコさん、『トランジション』という言葉を聞いたことがありますか?」
サチコ「いえ、初めてです」
ダイキ「人生の転機には、3つの段階があると言われています」
サチコは少し前のめりになった。
ダイキ「一つ目は『終わり』。これまでの何かが終わる段階です」
サチコ「私の場合は、会社員としての人生が終わったってことですね」
ダイキ「そうです。二つ目は『ニュートラルゾーン』。終わったけど、まだ新しいものが始まっていない。空っぽで、混乱していて、何をすればいいか分からない時期」
サチコの目が大きくなった。
サチコ「それ……今の私じゃないですか」
ダイキ「そうかもしれませんね。そして三つ目が『新しい始まり』。新しいアイデンティティや生き方が見えてくる段階です」
サチコ「じゃあ、私はまだ二つ目の段階にいるってことですか?」
ダイキ「そうかもしれません。そして……この二つ目の段階、ニュートラルゾーンは、とても大事な時期なんです」
ニュートラルゾーンの意味
サチコ「大事な時期……? でも、何もしていないのに?」
ダイキ「何もしていないように見えて、実は内側ではたくさんのことが起きているんです」
サチコは不思議そうな顔をした。
ダイキ「サチコさん、蝶を想像してみてください。蝶になる前、さなぎの時期がありますよね」
サチコ「はい」
ダイキ「あの時期、外から見たら何も起きていないように見えます。でも、中では何が起きていると思いますか?」
サチコ「体が……変化してる?」
ダイキ「そうです。イモムシの体が完全に溶けて、蝶の体に作り変えられている。もし無理にさなぎを破ったら、まだ蝶になりきれていない状態が出てきてしまう」
サチコは黙って聞いていた。
ダイキ「ニュートラルゾーンも同じなんです。外から見たら『何もしていない』ように見えるけど、内側では大きな変化が起きている」
サチコ「私の中で……何が変化しているんでしょうか」
ダイキ「それは、サチコさん自身が一番よく分かっているはずです。会社を辞めてから、何か変わったことはありますか?」
サチコは少し考えた。
サチコ「朝……ゆっくり起きられるようになりました」
ダイキ「他には?」
サチコ「ご飯を、ちゃんと座って食べられるようになった。前は立ったまま10分で食べてたんです」
ダイキ「それは大きな変化ですね」
サチコ「あと……本を読めるようになりました。前は活字を見ても頭に入ってこなかったのに」
少しずつ、サチコの表情が和らいでいった。
サチコ「それに……夜、ちゃんと眠れるようになった。前は明け方まで目が冴えて、寝てもすぐ起きちゃってたんです」
ダイキ「体が、回復してきているんですね」
サチコ「そう言われると……確かに」
焦りの正体
サチコ「でも……周りは『そろそろ次のステップを考えなよ』って言うんです」
ダイキ「それを聞いてどう感じますか?」
サチコ「焦ります。『そうだよな、私何やってるんだろう』って」
ダイキ「その焦りは、どこから来ていると思いますか?」
サチコは少し黙った。
サチコ「怖いんです。このまま何もしないで、気づいたら本当に何もできない人になってるんじゃないかって」
ダイキ「何もできない人……」
サチコ「はい。年齢も年齢だし、ブランクが長くなればなるほど、再就職も難しくなるって聞くし」
ダイキ「それは確かに現実的な心配ですね」
サチコは少しほっとしたような顔をした。
ダイキ「でも、もう一つ質問させてください。今、無理に動き出したら、どうなると思いますか?」
サチコ「どうなる……?」
ダイキ「まだ蝶になりきっていないのに、無理にさなぎを破ったら?」
サチコはハッとした表情になった。
サチコ「また……同じことを繰り返すかもしれない」
ダイキ「同じこと?」
サチコ「とりあえず就職して、『これでいいや』って自分に言い聞かせて。でも、結局また疲れて……辞めることになるかも」
彼女の声が震えた。
サチコ「それが一番怖いんです。もう一回同じことを繰り返す余裕なんて、ないんです」
手放すこと、受け入れること
ダイキ「サチコさん、今の話を聞いて思ったんですが……サチコさんは、まだ何かにしがみついているように感じます」
サチコ「何かに……?」
ダイキ「『こうあるべき』という考え方に」
サチコは黙った。
ダイキ「42歳だから、こうあるべき。女性だから、こうあるべき。元営業職だから、こうあるべき。そういう『べき』に」
サチコの目に涙が浮かんだ。
サチコ「確かに……いつも『こうあるべき』って考えてました」
ダイキ「その『べき』は、誰が決めたものですか?」
サチコ「誰が……」
彼女は考え込んだ。
サチコ「世間……かな。周りの人がそう言うから。親もそう言うし。でも……」
ダイキ「でも?」
サチコ「それって、本当に私が望んでいることなのかな」
彼女は自分の言葉に驚いたような顔をした。
サチコ「私、ずっと……誰かが決めた『正しい人生』を生きようとしてたのかもしれない」
ダイキ「そして、それが辛くなった」
サチコ「はい……。でも、じゃあ私はどうすればいいんでしょう」
ダイキ「まず、終わったものは終わったと認めることから始めませんか?」
サチコ「終わったものは終わった……」
ダイキ「15年間の会社員人生は終わった。『こうあるべき』という生き方も、もう終わりにしていい」
サチコは静かに涙を流し始めた。
サチコ「終わりにしていいんですか……?」
ダイキ「終わったからこそ、新しいものが始められるんです」
空っぽの時間を生きる
サチコは涙を拭いた。
サチコ「でも……何から始めればいいのか、まだ分からないんです」
ダイキ「それでいいんです」
サチコ「え?」
ダイキ「今は、何も始めなくていい時期なのかもしれません」
サチコは不思議そうな顔をした。
ダイキ「ニュートラルゾーンは、『何もしない』時期じゃなくて、『内側で変化が起きている』時期なんです」
サチコ「内側で……」
ダイキ「サチコさんの体は、今まさに回復している最中です。朝ゆっくり起きられるようになった。ご飯をちゃんと食べられるようになった。夜眠れるようになった」
サチコ「はい」
ダイキ「それは、『何もしていない』わけじゃないんです。『生き直している』んです」
サチコの目が大きくなった。
ダイキ「そして、その時間が十分に経ったとき……自然と『これをやってみたい』という気持ちが湧いてくるかもしれません」
サチコ「自然と……」
ダイキ「無理に探さなくていい。焦らなくていい。今は、ただ空っぽの時間を生きてみませんか?」
サチコは深く息を吸った。
サチコ「空っぽの時間を生きる……怖いけど、でも……なんだか少し楽になった気がします」
小さな変化に気づく
ダイキ「サチコさん、一つ提案があります」
サチコ「何でしょう」
ダイキ「毎日、小さな変化に気づいてみませんか?」
サチコ「小さな変化?」
ダイキ「たとえば、『今日は昨日より5分長く歩けた』とか、『今日は本を1ページ多く読めた』とか」
サチコ「そんな小さなことでいいんですか?」
ダイキ「その『小さなこと』が、実はとても大きな変化なんです」
サチコは少し考えた。
サチコ「確かに……朝起きられるようになったのも、最初は『今日は8時に起きられた』から始まったかも」
ダイキ「そうです。変化は、いつも小さなところから始まります」
サチコ「小さな変化に気づく……やってみます」
対話の終わりに
カウンセリングの終わり頃、サチコは少し明るい表情になっていた。
サチコ「今日、来てよかったです。なんか……自分を責めるのをやめられそうな気がします」
ダイキ「それは良かったです」
サチコ「私、ずっと『何もしていない自分はダメだ』って思ってたんです。でも……今は『何もしない』時期なんですね」
ダイキ「正確には、『何もしていないように見えるけど、内側では大きな変化が起きている』時期です」
サチコは笑顔になった。
サチコ「そうですよね。私、今まさに『生き直している』んですよね」
ダイキ「そうです」
サチコ「まだ不安はあるけど……でも、焦らずにこの時間を過ごしてみます」
彼女は立ち上がって、深くお辞儀をした。
サチコ「ありがとうございました」
エピローグ
それから3ヶ月後、サチコから連絡があった。
「ダイキさん、最近小さなことに気づけるようになりました。今朝、散歩してたら桜の蕾が膨らんでいるのに気づいて。『もうすぐ春だな』って。それで、なんだか『私も、もうすぐ何か始まるのかな』って思えたんです」
新しい始まりは、いつも静かに近づいてくる。