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コラム
キリスト教の洗礼(平たく言えば入信の儀式的なやつ)の概念として、イエスキリストの死と復活になぞらえて、それまでの自分が死んで新しい自分として生まれ変わる的なものがある。

そこまで明確な出来事としてではなくても、人は常に死と再生を繰り返していると思っている。
その場合の死と再生とは、新しい事を始める・新しい価値観に生きることだ。

今思いついた例で言えば、楽器を始めた時に、それまで聴いていた曲が全く違う聴こえ方をした時だ。
ちょっと困惑するレベルで今まで聴こえなかった音が聴こえるため、もう以前の聴こえ方に戻ることは出来ない。
これは意図しないものだが、意図して行うものとしては新しい仕事を始めたり、本を読んでそれに影響されたり、新たなコミュニティに属したりというわかりやすい変化によっても、それまでの自分とは違う自分になっていく。
さらに言えば特に環境の変化や特別な出来事が起こらずとも、同じ事を繰り返しているように見えても、人の感じ方は変化していく。
その変化は、まさに「感じれば」起こる。

逆に、そのサイクルを起こさない方法もある。
自分を殺すことだ。
「死と再生」と「殺す」という、なんだか言葉としては似たようなものなのが面白いが、全く逆のものである。
言うなれば、死と再生は動であり能動的、自分を殺す事は静どころか膠着・受動的と言える。

自分を殺すことは、一見とても楽な事だ。
死なないからだ。波のない海。まさに稲葉さんの透明人間だ。
その分自分の本質を全力で抑え込んでいるので、必ずどこかに歪みが生じてくる。
逆に自分の本質のままに生きて感じると、死と再生という荒波じゃ済まないところに入ることになる。
それはまさに自分の本質と正面から向き合うからであって、それはもう筆舌に尽くし難い経験をする。
その分他で得られない至上の幸せを得る事が出来る。
自分の場合は前者の自分を殺す作業を長らく行ってきた事で表面を取り繕った結果、そのしわよせが家族に及び、離婚に至った。
しかしそれは大いなるギフトで、本質と向き合うきっかけを頂いたことで、今はとてもありがたい関係を築けている。
先に述べた通り、その向き合う部分においては七転八倒の連続だった。
それでも向き合うのをやめなかったのは、この道こそが自分が幸せに至る道であると確信したからだ。

生きる事を通して、何を感じるか。
感じることで死と再生を繰り返し、それによって豊かに人生における学びを得る。
少なくとも自分の人生における「生きる意味」とはそこに尽きる。
自分の本質と統合すること以上に大事な事があるとは思えない。

ただ断っておくが、これは自分の人生において、の話だ。
人はそれぞれ全く違った存在であるので、こうでなければならないという事は一切ない。
各々が自らの本質が設定したテーマを持つが、それに沿うも沿わないも、どちらでも良いのだ。

その上で、本質に沿って生きたい、でもやり方がわからない、自信が持てないという人には、こころ研究家がお役に立てます👍
みんなで一緒に幸せになろうね。
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