記事を書いている時に思い出せない言葉があって、なんだっけなーと調べていく中で、小学生で習う漢字のところを見ていた時のこと。
漢字と読み方、簡単な意味の説明が羅列されているのだが、ある項目にとても思うところがあった。
それは以下だ。
↓↓
幸福(こうふく)
めぐまれていて、心が満ち足りている様子。
↑↑
これを読んでどう思うだろうか。
ちょっと考えてみて欲しい。
自分の感想としては、やはり幸福は主観によってのみ得られるものなのだな、というものだ。
恵まれているか否かは、他人が判断出来る事ではない。
金銭的に恵まれていようが、他者から見て理想的な親の元に育とうが、仕事や恋愛・家庭や趣味など順風満帆に見えていようが、本人の心が平安のうちにいなければ、それは幸福ではないのだ。
その逆もまた然りで、他者からは悲惨な状況や環境に生きようとも、それを自らに与えられた恵みととらえて感謝している者は幸福だと言える。
ちょっと上記の表現はかなりニュアンスが難しいので補足するが、他者からの悪意ある扱いやおかれている環境を有無を言わさず受け入れろ、という事ではない。
自分の身に実際起きた事で例えると…
①
親がわけわからん事言ってきてかなり感情を揺さぶられた時に、あーこの反応は自分の中に何かひっかかりがあって、それを刺激されたから出てきてるんだよな…サインをくれてありがとう。と考えた。
このケースの感謝の対象は親ではなく、自分の場合は漠然とこの世界に対してだ。親の行動を正当化する必要はなく、ただの事象として考える。意味があってこのタイミングで親の行動を通して気付きをくれたんだよなぁ、と。
②
仕事の関係の人で、明らかにやべー考え方の人がいて、もう日本語通じねーなこれっていう状況の時に、このヤバさとどう向き合うのか、同じ次元で戦うのか、高い次元から俯瞰して対応するのか、そういう切り替えのチャンスをもらっているな。と考えた。
この場合も相手の行動はただの事象であるため、否定も肯定もする必要はない。ただ自分が自分の主義主張に照らし合わせて、どう行動するかだけであって、それだけヤバい事をしてくるから考えるしかなくて、つまり同次元から抜け出すきっかけを与えてもらっているのだなぁ、と。
③
本人のために名言は避けるが、自分の大切な存在から、明確に現状の自分とは関わりたくないと言われた時。
これは明確に愛でしかない。言いづらい事を、はっきりと言葉にして伝えてもらっているのだから、その行動には敬意をもって対応するが道理というものだろう。
当然それを言われた事も、その後の内観の道程も衝撃と苦しさが筆舌に尽くしがたいものであったが、それによって自分自身が明らかに生きやすく、幸せになっている事を実感出来ている。ただ感謝。
これでニュアンスは伝わっただろうか。
大事なのは他者の行動ではなく、自分がそれをどう捉えるかだ。
というかそれが全てなのだ。
他者を評価する事で止まってしまって、自分の成長に目を向けないのは非常にもったいない事である。
あ、ちなみに3つとも、死ぬほど苦しんだしぐちゃぐちゃに葛藤した結果として結論にたどり着いているので、スッと感謝の方向に行けているわけではない事は書いておく。
そして、他者から受けた傷を解決するのも、その対象の他者をはじめとした自分以外の存在には成し得ない事だ。
そう、自分の心の傷は、自分にしか解決出来ないのだ。
なぜならそれは自分のものであって、他の誰のものでもないからだ。
もちろんその解決に向けて助けを得る事は出来る。というか助けがないと自分だけで向き合うのはかなり困難な事だ。
友人との会話なりカウンセリングなり宗教なり、どんなものであっても良い。
それでも最終的に傷を受けた悲しみ・苦しみ・怒り・恨みを、赦してあげられるのは自分しかいない。
そしてその結果として、恵まれている事に感謝して、充足を感じる。
それが幸福というものではないだろうか。