キリスト教との向き合い方8/3

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コラム
今日は不思議なご縁でお世話になっている牧師先生が割と近くで礼拝に立たれるというので行ってきた。
礼拝にまともに参加するなんて一体いつぶりだろうか。
以前も説教を拝聴して、難しい話はしなくても滲み出る学の深さと、あまりに実践的な、生きることにダイレクトにプラスになるような解釈に感銘を受けたものだが、今回もやはりとてつもないお話しであった。
キリスト教というものに対して猜疑心バリバリで斜に構えている自分に、そんなに力まなくてええんやで、とまさしく赦しを得た気持ちだった。多分。
正直まだ正確に捉えられていないが、少なくともお話しを聴いて謎の涙が止まらず、安堵のような感覚があったからだ。
赦しを求めていたという事は、赦していなかったのだ。他でもない自分自身が。
それがキリスト教家庭に育ち、こうでなくてはならない、というプレッシャーを背負い込んで、理想と現実の乖離によって自身を赦せなかったのか。
はたまた信じるべきものとされてきたキリスト教の、歴史的な負の側面や理解不能な部分に失望して、その狭間で苦しんでいたのか。
どちらもあるな。
つまりキリスト教に対してとても裁いていた。判断・ジャッジしていたという言い方にもなる。
故に同じように自分に対しても裁いていた。
この考え方って誰か哲学者が言ってたような…と思って調べたら、
…聖書でした。マタイ7-1。
……
正直まだ斜に構えスタイルが全然健在なので、言い表せないむずがゆさを感じる。聖句から何かを感じ取っているという事実に。
でも今日の説教を聴いていた中でも、聖書に対しての猜疑心は抜けないが、一旦それがそういうものだとして飲み込んで考えてみてもいいのかもしれない、と感じたので、哲学や自己啓発の本くらいに自分の中の垣根を下げたらいいのかな。
そう、権威主義。自分の発想に権威やヒエラルキーがまだまだある。過大な評価、それによる萎縮、卑屈。
そのバランスをもうちょっとならしていきたいなぁ。
その契機としては、けっこう大きなものになるかもしれない。
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