「自分もそう育てられた」という体罰の連鎖
学校で体罰が起こる背景には、「自分もそうされてきた」という経験の連鎖があります。
教師の中には、子どもの頃や学生時代に、厳しい指導を受けてきた人もいます。
部活動で怒鳴られた。
叩かれた。
長時間立たされた。
失敗すると罰を与えられた。
それでも大会で勝った、進学できた、精神的に強くなった。
そうした経験があると、「あの厳しさが自分を育てた」と考えてしまうことがあります。
もちろん、厳しい環境を乗り越えた人の努力は否定されるものではありません。
しかし問題は、過去の苦しさを「必要なものだった」と意味づけてしまうと、次の世代にも同じことをしてしまいやすい点です。
たとえば、部活動でミスをした生徒に対して、「自分の時代なら殴られていたぞ」「今の子は甘い」と言う指導者がいます。
この言葉の裏には、「自分も耐えたのだから、お前も耐えるべきだ」という考えがあります。
しかし、苦しみに耐えた経験があるからといって、同じ苦しみを子どもに与えてよいわけではありません。
本当は、「自分はあのとき苦しかった。
だから、今の子には別の方法で伝えよう」と考えることもできるはずです。
体罰の連鎖が怖いのは、暴力が「愛情」や「熱心さ」にすり替わるところです。
「あの先生は本気だった」
「殴られたけれど、愛情はあった」
「厳しくされたから今の自分がある」
そうした言葉は、一見すると美談に見えます。けれど、子どもに恐怖や屈辱を与える指導を、後から美しく語ってしまうと、体罰はなくなりません。
教育に必要なのは、過去のやり方をそのまま繰り返すことではありません。時代に合わせ、子どもの理解に合わせ、よりよい方法へ更新していくことです。
「昔はこれでよかった」は、今の教育の根拠にはなりません。
今は、子どもの心理的安全性、発達特性、権利、心の健康が大切にされる時代です。
教師の経験も大切ですが、それだけでなく、科学的な知見や子どもの声にも耳を傾ける必要があります。
自分が受けた痛みを、次の世代に渡さない。
それもまた、大人にできる大切な教育です。