ふと流れてきた一曲に、心を掴まれた。
何気なく聞いていたはずなのに、
気づけば涙が止まらない。
認知症になった親の気持ちを歌っているように感じたその歌は、
胸の奥に、静かに、でも確実に入り込んできた。
私の父は50代で亡くなった。
だからこそ、今でも元気でいてくれる母の存在が、どこか特別に感じる。
母は高齢になった。
老人クラブの集まりが大好き。
「今日は何を着ていこうかな」と嬉しそうにしている。
そんな母のために、季節に合う服を選んではプレゼントする。
新しいお洋服に大喜びする姿を見るのが、何より好きだ。
少しでも気分よく出かけられるように。
その時間が、少しでも輝くように。
そんな日常の中で、あの歌がふと重なった。
いつか、母にもそんな日が来るだろうか。
でも、どうかその時――
「迷惑かけてごめんなさい」なんて言わないでほしい。
そう、心から思う。
「自分が自分でなくなるこの恐怖」(歌詞より)
その言葉を聞いたとき、胸がぎゅっと締め付けられた。
認知症は、ただ“忘れていく“ことではないのかもしれない。
これまでのつみ重ねてきた時間や、
大切にしてきた人との記憶が、
少しずつ、自分の手の中からこぼれていく。
白い廊下
誰かの足音
「お昼ですよ」と知らない声が降る
鏡に映る見知らぬ人が笑う
私の名前を呼ぶのは誰だろう(歌詞より)
その情景が介護での現場での記憶と重なった。
私は「○○さん、お食事ですよ」と声をかけていた。
昼なのか、夜なのか。
今がどんな時間なのかさえ、曖昧になることもある。
にっこり笑って「お食事ですよ」と伝えても、
うまく理解できないこともある。
その中で、どう伝えるか。
どう関わるか。
一日一日が、工夫と根気の積み重ねだった。
昨日までの道が急に消えて、
愛した人の顔さえも砂のようにこぼれていく。(歌詞より)
そんな不安や恐怖の中で、
それでも、人は生きている。
どうか、最後の時間が、
「迷惑かけてごめんなさい」ではなく、
「ありがとう」であってほしいと、思わずにはいられない。
一生懸命生きてきて
最後にどうして、
「迷惑かけてごめんなさい」なんだろう。
家族のために生きてきて、
子どものために捨て身になってきた人が、
最後の時間で、どうして
こんな気持ちに包まれてしまうのだろう。
その曲が、教えてくれたこと。
それは――
人は、最後まで誰かの迷惑なんかじゃないということ。
ただ、そこにいてくれるだけで、
もう十分なんだということ。
そしてその時間は、
お別れの期間として、
大切に重ねていくものなのかもしれない。
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