さとりたいけど、さとれない無職中年の話

さとりたいけど、さとれない無職中年の話

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無職の生活は時間だけは沢山あるし、豪遊するような経済的余裕も無いので、積読になっていた、刀根健さんの『さとりをひらいた犬』を読みました。

刀根健さんは、ステージ4Bの末期がんで全身転移の状態から、がんを克服したがんサバイバーでもあります。私は、がんサバイバーとして有名になった刀根さんだから、ではなくて、「さとり」のワードの方で本書に出会いました。

さとりたい、ってヤバいんじゃね?

「さとり」に対する関心は、引きこもって自⚫︎未遂した19歳の頃から、強弱の幅はあれどずっと抱き続けてきた気がします。そこから30年近く経過しましたが、一向にさとりません(笑)。

「さとりたい」って願望を追求する時点で、ヤバいのかもしれませんね。そもそも釈迦が皇子様の地位も財産も捨てて世捨て人になったのも、生老病死の苦悩に気づいて、それが地位も名誉も財産も解決しないと悩んでのことだったらしいです。

涅槃の境地(悟ってブッダになった状態)では、あらゆる苦が滅するとか。この世は苦である(一切皆苦)というブッダがそこに至ったんであれば、そりゃそこに行きたい・・・・

なので、「さとりたい」などと言ってそれを軸に動く人というのは、ヤバいってのは語弊があるにせよ、根本的に苦悩を抱えて持て余してる人なんだろうと思います。

さとりの道への登山口は、どこ?

ほんで、さとりに至るには、「無我」の境地に至らねばならんとか、いやいや「真我」だ「仏心」だ「ハイヤーセルフ」だとか、「ワンネス」だ「梵我一如」だとか・・・

仏教やらヒンドゥー教やらスピリチュアルやら動員し、最近では量子物理学とか脳科学まで動員して、必死にさとりへの道を模索するんですが・・・。これが凡夫には見つからない。

いや、一瞬ひとときは、「あれ、これが宇宙と繋がるってことですか?」とか、「ブラウフマンとアートマンの一体化が起きたか!」とか、「反芻思考を停止して右脳で生きてる」などと感じた気にもなるのですが、もう長く続きはしないのです。実にエゴイスティックで煩悩まみれな悩みが湧いて、アッという間に「さとり気分」も吹っ飛んでしまう。

そんなこんなで、「さとり登山」にも疲れてきているようにも、我ながら思うのです。

刀根さんの本

で、そんなお疲れ気味の私が、やや斜に構えて、刀根さんの本を読んだんです。

ネタバレを避けることにして、中身は深く語りませんが、非常に興味深く、没入して一気に読めました。

同時に、読後は不満も残りました(その辺が、さとってない私の凡人たるところ)。さとりに至ったのは良いとして、生身の身体を持ちこの世で生き続けなければならない存在として、「さとり後」はこの世でどう過ごしてるか、そっちが気になるなと。

さとり後の生き様って・・・?

ついつい、「さとり=ゴール」と思って悟りを目指しがちではあるんですよね。それこそ、何遍も生まれ変わらないと悟れない、と考える人もいるくらいだから、そんな高いハードルは、目指してもなかなか到達できないんでしょうし。

ただ、悟ったらどうなるんでしょう。天から雲に乗ったブッダなり仙人なりが迎えにきて、極楽浄土に連れて行ってくれるわけでは無いはずです。飯も食わねば生きられず、稼がねば生活も成り立たず、老い朽ちていく我が身の変化は止められず、それでも人生100年生きていかねばならない、その状況は「さとり」のゴールテープを切っても変わらないはず。

さとり前とさとり後で、同じ状況でも受け止め方・過ごし方が変わるってことなんだろうとは思うんですが、だからこそ、さとり後のこの世の過ごし方・あり様の方を知りたい、そう思ってしまうんですねぇ。

思えば、ブッダはさとり後、普通に生活する人たちに托鉢で恵んでもらって、それで生きていたそうな。そして80歳でこの世を去ったと言われるので、不老不死でもなかった。きっと、「この世の生には、『これで上がり』ってゴールは無くて、不安に思えば不安は絶えない状態がずっと続くぜ」って言うんでしょうね。

よく、「諦め(明らめ)が肝心」などと言いますが、明日・1ヶ月後・1年後・3年後の安心安全の保証を諦めて今に生きる、とかできれば、それが悟りなのかも・・・とも。
うーん・・・・。私はさとりには程遠いようです。
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