阿佐ヶ谷のアーケード街から一歩入った裏通りにひっそりと佇む店があった。以前はパーマ屋だったらしく薄っすらと『ヘアサロン…』の文字がガラス扉に残っていた。その扉には申し訳程度の「丘乃手相鑑定所」の木製看板が掛かっていた。
扉が開くと棒状のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた男性の声が響いた。声の主は黒いローブを纏い、中は柔らかな照明と香木の香りが漂い、訪れる者を別世界へと誘うようだった。
「あのぉ、今日予約していた神倉茉優です。丘乃先生ですか」
20代後半の女性らしい神倉は恐る恐る確かめていた。
「私が丘乃啓一です」
丘乃の深い眼差しは、まるで相手の心の奥底まで見透かすかのような鋭さを持っていた。
「まあ、こちらにお掛けになって、気楽にしてください」丘乃は静かに言った。茉優は少し緊張した面持ちで頷き、座ると手に握りしめていた予約カードを差し出した。
紫色の羅紗の布が掛けられたテーブルに手を差し出す神倉。
丘乃は彼女の掌をじっくりと見つめた。
「まずは、あなたの過去を見てみましょう」
丘乃の指が神倉の掌の線をなぞるように動く。
「あなたは…幼少期に大きな転機を迎えましたね。それは、家族に関わる出来事でした」
丘乃の言葉に神倉の目が見開かれた。
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「手相は、あなたの人生の地図のようなものです。ここに刻まれた線は、過去、現在、そして未来の道筋を示しています。」
丘乃はさらに詳しく掌の線を読み取っていく。
「あなたは最近、大きな決断を迫られる出来事がありませんでしたか。そして、それが今後の人生に大きな影響を及ぼすことになるでしょう」
神倉は黙って頷いた。その瞳には、丘乃の言葉に対する驚きと信頼が入り混じっていた。
「具体的に、どんな決断なのか教えてもらえますか」丘乃が尋ねると、神倉は少し戸惑いながらも口を開いた。
「実は今の職場を辞めるかどうか迷っているんです。新しい仕事のオファーがあって、それに挑戦したいと思ったのですが、その反面、不安も大きくて…」
神倉はだんだん小声になっていく。
丘乃は神倉の掌から目を離し、真剣な表情で彼女を見つめた。
「その決断は、あなたの未来において非常に重要な分岐点になります。今は迷いがあるかもしれませんが、あなたの直感に従うべきです」
丘乃がキッパリと言うと神倉の表情が明るくなった。
「ありがとうございます。丘乃先生。なんだか、勇気が湧いてきました」
神倉は何かが吹っ切れた様子であった。
丘乃は微笑み返し、神倉の手をそっと握りしめた。
「あなたの未来は、あなた自身の手の中にあります。どの道を選んでも、必ず自分の信念を持ち続けてください」
丘乃はまだ続きを言いたそうにしていたが、躊躇していた。
神倉は感謝の言葉を述べ、丘乃に一礼して店を出ようとした。
「あのぉ、神倉さん、あなたにはもう一つ素晴らしい手相があります」
「えっ、何ですか」
「深く刻まれた明確な仏眼紋です。これはかなり強力なもので…。私が探し求めていたものなんです」
丘乃が言うと神倉は怪訝そうな表情になった。
「あぁ、ナンパとかでなく…、そのぉ濃い覇王線もあり、世の中を変える超能力のようなものがあるはずです」
「丘乃先生、超能力ですか」
神倉は頭のおかしい人を見る目になりかけていた。
「急にこんなことを言って、申し訳ありません。ただ、これで二人目なのです」
丘乃は自分の掌を神倉に見せていた。
「先生もですか」
神倉はいろいろな感情が交錯し、声が裏返っていた。
「はい。古より伝わる手相の魔道書によると、この手相の人が7人集れば世の中が一つ上の段階に変われるとされています」
丘乃は真剣な眼差しを神倉に向けていた。神倉は関わりになりたくなさそうな渋い顔をしていた。
「あのぉ、私は新しい仕事に挑戦したいだけです。世の中を変えるつもりはありません」
「…これは失礼しました。ただ、あなたはこの力を無にはして欲しくないのです。無にすると予期せぬことが…。とにかく何か妙なことはがありましたら連絡してください」
丘乃がいうと神倉はさっさと外に出て行った。