核心を掴んでいるのは、どちらなのか
臨床の現場でも、対人関係でも、私はいつも「なぜ」という構造を探し続けています。中身のなさに違和感を覚え、迷いながら深く潜っていくタイプです。一方で、周りの同僚や後輩たちは驚くほど迷いなく、「これが正解です」「こうすれば治ります」と、はっきり言い切ることがあります。その潔さを前にすると、ふと不安がよぎります。「もしかして、私のほうが間違っているのではないか?」「彼らのほうが核心を鮮やかに掴んでいるのではないか?」■ 1. 「シンプルさ」は到達点か、それとも通過点か物事の核心は、たしかにシンプルです。もし彼らが膨大な試行錯誤と深い洞察の末に、余計な枝葉を削ぎ落とし、「この一手」という答えに辿り着いているのだとしたら──。それは、構造の複雑さにまだ囚われている私より、ずっと高いレイヤーにいるということになります。彼らが中身を語らないのは、語る必要がないほど本質を掴んでいるから。そう考えると、私の迷いはただの「遠回り」であり、「未熟さ」の露呈に思えてくる。その可能性を考えると、足元が崩れるような感覚になります。■ 2. 「思考の放棄」と「核心の把握」の見分け方しかし、そこで私は立ち止まります。彼らの言う「シンプル」は、本当に“到達点としてのシンプル”なのか。それとも、考えることを放棄し、マニュアルや他人の言葉を借りてきただけの“思考停止”なのか。中身を問わず、結果だけを追い求める姿勢は、核心を掴んでいるからではなく、そもそも核心という概念に興味がないだけ という可能性もあります。そして気づくのです。「核心」をどう定義するかは、人によって違う。彼らにとっての核心は「結果」。私にとっての
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